努力しても報われない社会 – 上野千鶴子が投げかけた疑問

野千鶴子が東大で行った演説が話題になっている。上野さんのような人が東大にいると日本の民主主義は崩壊するだろうと思った。




全部読んだわけではないが、東大生は頑張れば報われる社会を生きてきたのだが、彼らが今後直面する社会は必ずしもそうはなっていないということを言っているようだ。これを聞いて「キリスト教的民主主義の伝統がないと、人はこういう疑問を持つんだな」と思った。やはり日本に民主主義は無理なのかもしれない。

我々は民主主義・自由経済社会を生きていると考えている。人々が平等であるのは当然善であると考え、なぜそうあるべきなのかということはブラックボックスに入れて考える。特に最近の中国バッシングを見ていると一党独裁は最初から悪で民主主義こそが正義だと考えていることがわかる。その一方で日本の民主主義には誰もが不満を持っている。自分の思っているような社会がおのずから作られないからだ。だからこそそうでない社会を叩き、自分たちは善であると思い込もうとするのだ。だから日本人は政治的問いかけが自分たちに向くのを極端に恐れるようになった。

このようなことになるのは欧米型の民主主義国の支配体制が終わり非民主的な国が経済的に成功してきているからである。実は、日本人が持っていた民主主義に対する感覚を我々自身が疑い始めているのだ。

民主主義というのはキリスト教の考える「愛とか平等」から神様というエッセンスを除いたものだと考えられる。結果的に経済的に繁栄したために「まあ、この考え方に乗っておけば問題はないだろう」ということになった。

もう少し突き詰めて考えるとキリスト教が「愛」と呼んでいるあのふわふわしたものが経済発展に良い影響を与えているということはわかるだろう。つまりまずお互いに信頼して経済のプラットフォームを造ることで我々は破壊ではなく生産に専念することができるようになったのだ。また「多様性」を認めることで、それぞれが持っている才能を経済発展と繁栄に活かせるようにもなった。

その背後にあるのは、実はかなり楽観的な世界観だ。キリスト教では我々が生きられるのは神様からの恩寵があるからだと考える。そして特にこれを感じることができるのは実は失敗を経験したことがある人なのではないかと思う。

「もうここまでだろう」と思って全てを諦めた瞬間に回復に向かうということが人生には確かにある。水の中でバタつくのをやめたら実は浮いていたというあの感覚だ。この浮力をキリスト教では奇跡と言ったりする。キリスト教の実践は、助け合いの輪に加わることによって「こうした奇跡」を身近に感じるということでもある。実は助け合いを通じてその環境を作っているだけとも言えるのだが、実践と参加が需要な宗教である。

シスターも上野と同じようなことをいうだろう。「東大生は特別に恵まれている」という言い方はキリスト教的には「普遍的に存在する奇跡」によって守られているということになる。だから、感謝してそれを周囲にも広げて行かなければなりませんというというのが多分教会的なメッセージになる。

だが、日本にはこうしたキリスト教的な伝統はないということが上野の発言からわかる。日本はまず自由主義経済から受け入れたがその時にたいした疑問は持たなかった。戦後民主主義が入ってきた時もアメリカが戦争に勝てたのだからきっとそれはいいものに違いないと考えた。だから、今になってジタバタと闘争を始めると、実はその根底にある楽観を理解していなかったということに気がつくのだ。そして「溺れるかもしれない」と思うともっと体を激しく動かすことになる。

日本人は極めて苛烈な競争意識を持っているので溺れた人を助けない。それどころか叩いてもいい存在と認識して群衆になって叩き始める。すると人はもっとバタつく。日本人は弱者が認められることがない社会だ。社会に弱者が存在することも認められないし、身内にいることも認められない。そしてついでに自分の中にもそういう弱者がいることも認められない。だから溺れている人もそれを見ている人も実は恩寵や奇跡を実感できなくなる。

本来民主主義・自由主義経済は「通貨などという形のないものをみんなで信頼するところから始めよう」という極めてあやふやなところから始まっている。「自分が使った金が自分のところに戻ってくる」と考えるのはかなりおめでたい人だ。管理する人が誰もいないのに経済がおのずとうまく回り人々は豊かになれるなどというアダム・スミス理論はキリスト教的には神の恩寵でも日本人にとっては妄言でしかない。つまり、民主主義・自由経済はかなりおめでたい理論なのである。

神の奇跡が本当にあるかという保証はどこにもない。神は人間をこの世界に送り出す時にメーカー五年保証のようなものもつけてくれなかったし、契約条件も新約聖書で無効になってしまった。人は十戒の世界を追放されて、イエス・キリストによって「ただ信じなさい」と荒野に放逐されとも言えるのだ。

フェミニズムや環境保護といった戦いが自己証明を始めるとそれは闘争になってしまう。例えば捕鯨運動や菜食主義などは欧米でも批判が根強い。「なぜ神は我々を愛してくれないのか」という代わりに「肉は食べないから私を愛してください」というのは実はキリスト教的ではないのである。モーゼのように神の言葉を聞けない我々が新しい契約条件を作ることはできないのだ。

努力しても報われないかもしれないという疑いはおそらく合理的なものだろう。が、合理的に接している限り永遠の闘争が続いてしまうのだ。叩き合いはもうおまけみたいなものである。多分、この叩き合いに疲れた人たちは独裁という「確かな政治」を求めるだろう。自由からの闘争は多分何度でも起こり得る。

西洋流の民主主義や自由経済には突き詰めてゆくと根拠のない領域がある。それは信仰と個人の理想という日本人に取ってみると極めて曖昧なものに支えられた実にあやふやなものなのではないかと思う。

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