日本人には誰も何もまとめるつもりがない

今日は「日本人は誰も何もまとめるつもりがない」というテーマで書く。政治嫌いとかそれ以前の問題だ。興味がない以前に、そもそもまとめるつもりがない。




竹本直一IT担当大臣が早速いろいろなネタを提供している。自分の公式ウェブサイトは閉鎖されておりどうして閉鎖されているかわからない。また、公式YouTubeではAV動画が残っていたそうだ。多分関係者が高評価したものが残っていたのだろう。事務所ののほほんとした仕事ぶりが分かる話だ。

極め付けだったのが「はんこ議連の会長だった」という点である。早速面白がった記者が質問をし「印鑑とITの両立」といういかにもTwitterでバズりそうなキーワードを提供してしまった。聞いてくれた記者はグッジョブであるが脱力感しか残らない。今回の改造は安倍適材適所内閣(はいはい)と命名したい。

この問題が過去の面白い問題を呼び起こした。国の改革提案から「印章の義務化の廃止」という項目が排除されてしまったというのである。ちょっと話題になったがすぐに忘れ去られた。具体的には次のようなことを言っているそうだ。さらに改革するなら業界に補償せよなどとも言っている。

1つ目は行政続きにおける「本人確認押印の見直し」、2つ目は法人設立における「印鑑届出義務の廃止」、3つ目は「一般的な取引におけるデジタル化の推進」である。つまり、本人確認には引き続き印鑑のみを用いるべきであり、一般的な取引をデジタル化することには反対するという主張である。

印鑑廃止、業界団体の反発で見送り これは「異常な光景」なのか?

政府はマイナンバーカードの普及を進めている。ICカードを使えば本人認証ができるはずである。2019年3月現在の普及率は12.8%だそうだが、使い道がなければ更新しない人も出てくるだろう。未だにこのカードを出すと珍しがられる。普及に346億円の国家予算を使いポイントもつけるかという話も出ている。だが、こうした努力も「結局印鑑が必要だ」というだけで台無しになる。つまり国の政策には整合性がない。

さらに国会の業務効率化にも逆行する。印鑑業界を守るためにかなりの工数をかけているはずである。費用削減効果は億を超えるのではと思うが、そもそも試算もないようだ。霞ヶ関でも一旦書類として印刷し捺印した上でそれを電子的に読み込みOCRをかけるということになる。無駄の極みであるデジタル政府を作ってそれを海外に売り込むのだなどという威勢のいい言葉は並んでいるが、実際には印鑑さえ削減できない。政治のリーダーシップがないからである。

結局国はどこに行きたいのだろう?と思うのだがその方向性は全く見えない。安倍首相は憲法改正をやりたいと言っているが内閣改造と憲法改正の関係もわからない。首相が言っているのは「俺は俺でやりたいことがあるから国のいろんなことは適材適所でよろしく」ということだ。それを菅官房長官が「適材適所なんじゃないですか」といって薄ら笑いしている。

安倍総理大臣には統合力がないが、統合力がないことを誰も責めない。そもそも前回見たように日本人は共助や自治に興味がないからだ。誰も何もまとめないことを取り立てて不思議に思わないのである。だって国は昨日と同じように動いているからである。ある意味社会はそれぞれ自律的に動いていて極めて民主的な社会と言える。ただし何も変えられない。

こうしたバラバラさは災害時対応でも見て取れる。日曜日深夜から始まった大規模停電が千葉県で続いているのだが、被害の全容解明をしようと動き出したのはなんと金曜日の9月13日だったそうだ。それまでの間東京電力は地方自治体に被害の全容報告をしなかった。経済産業省が入ってやっと電柱2,000本という数が出てきた。

確かに9月11日に内閣改造がありそれどころではなかったという気持ちはわかる。

今回特殊だったのはこれがほぼ千葉県だけの話だったということである。つまり千葉県だけで解決ができるはずの問題だったのだ。だが、千葉県全体をあげて対策本部を作ったという話はついに聞かれなかった。森田健作知事も多分大変だったんだろうが何をしていたのかよくわからない。千葉市長はTwitterで「いろいろ調整しているなあ」というのが見えてきた。小西ひろゆき議員も政府批判を混ぜ込みつつ「自分はいろいろやっている」とアピールしていた。それはそれで立派なのだが、誰もそれをまとめない。そしてまとめないことについて誰も何も言わなかった。自分の家の電気がつくことだけが重要だったからである。電気が復旧した地域からそれは他人事になった。

前回日本人は政治が嫌いだという話を書いた。たくさんの人が読んでくれているようだ。だが、問題はもっと深刻である。つまり総理大臣から下「誰も話をまとめよう」という発想を持たないのである。公共を嫌っているわけではない。そもそもそんな発想がない。

改めて「昔からそうだったのだろうか?」と考えてみても答えが出てこない。おそらく昔からそうだったのだろうが、かつては職場や住居にそれなりのまとまりがあり国や地方公共団体は「それをお手伝いしているだけ」で済んでいたのではないかと思う。つまり公共がなくてもそれほど困らなかったのだ。そういう小さなまとまりが崩壊してもなお日本人の意識は大して変わらない。

自民党は憲法改正案の中で公共の福祉の拡大や緊急事態条項の設置など「公の拡大」を求めている。そもそも統合しようという気持ちがないのになぜ権利だけを欲しがるのだろうかとは思う。

だが、仮にそんなものを政府に与えたとしても日本人はそれを使いこなせないだろう。そもそも公共というものに全く意識が向かわないからである。日本人は今でも村社会を生きていて、地方自治体以上のレベルのまとまりを意識できないのではないかと思う。