みんなとは誰か – 香港騒乱と憲法改正問題

香港の騒乱について議論をした。当初、香港は中国に返還された。香港には中国人が多いのだから当然主権は香港人のものになったのだろうと考えた。ところが、これが違っているという指摘があった。香港の基本法によると香港には主権はないというのだ。だが、後から香港は中国に代表を送っているともいう。訳がわからないと思った。




その鍵は中国の憲法にある。「中国国家制度の枠組み」という文章によると、中国は人民独裁国家という仕組みをとっているそうだ。主権・民主主義という概念が特殊なのである。

この文章によると人民が政治権力を独占するという人民独裁制という体制をとっているという。中国は無産階級独裁を目指したが民族資本家を取り込む必要があり無参加階級である。この体制に異議を申し立てる人は人民から排除されても構わないということになっているのだという。つまり人民はPEOPLEの訳語ではない。要するにみんなに逆らう人はみんなからはじかれるということになっている。

この考え方は極めて東洋的である。西洋人ならば権力者という個人が他の個人から人権を奪うと捉える。だが、中国には集団的な人民という階級がいて彼らが内輪で話し合って何が受け入れられるかを決めるのだということになる。

香港が中華人民共和国に復帰する時、中国の体制に親和的な無産階級であれば「我々の手に戻った」と喜んでもよかったことになる。ところがこれを強調しすぎると香港から資産家階級が逃げ出してしまうので(実際に今回そういう動きが起きているそうである)この辺りを曖昧にして復帰したのだろう。「主権」という言葉の揺れが社会インフラの破壊にまでつながったという意味では恐ろしいことだなと思うが、資産家はいずれは国をでなければならなかった。

このような話を書くと「ああ、やはり中国は恐ろしい国だ」と思ってしまう。ところが実際にはそうではない。この「みんながいいと思っていることがいいことなのだ」という考え方は日本でも割とよく見られる。

公明党が「中道政治とは何か」という文章を出している。中道とはみんなが常識として持っている価値体系だそうだ。

そのどちらの側にも偏らず、この二者の立場や対立にとらわれることなく、理の通った議論を通じて、国民の常識に適った結論(正解)をさがし、創り出すことを基本とする考え方である。あえて、つづめて言えば、中道政治とは、「国民の常識に適った政治の決定」を行うことを基本とする考え方であると言っても良い。

中道政治とは何か(上)

この背後に宗教団体がいることを知っているので違和感を感じるが「自分は常識的な人間で偏りがない」ということ自体は日本ではよく聞かれる意見だ。このため朝日新聞は偏っているとか産経新聞は偏っているという人がおり「自分は偏りがない中道な意見が読みたい」という人さえいる。ところが、その中道は何かと聞かれると「みんなの常識なのだ」というような言い方になり答えがない。

日本人は多分「この考え方は中国共産党的だ」というと怒ると思うのだが、実際には「みんなの正義が社会の正義であるがそれが何かは説明できない」というのは日本でもよく見られる議論である。最終的にはそれはみんなの正義だから個人では逆らえないなどという話になって終わる。

自民党の憲法草案も「みんなが選んだ議員が決めることが正しいのだから自分たちが何が公共かを決めることができる」という考え方で作られている。批判をする人は「みんなには入らない少数者はどうするのだ」というのだがその答えはない。自分は中道でみんなの意見と合致するのだから、当然何が間違っているかを判断する目を持っていると考えるのである。

この「みんなが正しい」という表現は東洋的な政治議論を読み解くカギになる。公明党のみんなというのは多分支持母体である創価学会の信奉する理念のことを意味するのだろうし、自民党のみんなというのは彼らの支持母体の一つである日本会議の価値観を含んでいるのだろう。これは中国のみんなが実質的に人民代表大会とそこで選出された代表者を意味するのに似ている。そのサークルに入っていると感じている人は安心感を覚え、そこに入っていないと感じる人たちからは猛烈に反対される。

日本の憲法改正議論が進まないのは小選挙区制を導入してしまったからだろう。当然二大政党に向かうのだが、日本の場合は政権交代が起きないので排除され続ける比較的大きなみんなに入れない人が存在し続けることになる。議会ですらみんなが作れないのだから国民が包摂できるはずはない。

案の定、安倍首相のいうみんなは「オトモダチ」と呼ばれるようになった。経済停滞期に入り「みんなを納得させるだけのアメ」が配れないのだ。外で見ているだけの人たちは当然それを攻撃するだろう。最近ではテコンドーの金原会長が「理事のみんなは賛成している」といって選手出身の理事と副会長と対立している。理事の一人は話が全く通じないので過呼吸を起こして倒れてしまったそうだ。テコンドーの協会は選手や国からお金を取ることしか頭になくオリンピックを目指す選手たちと利害が対立しているのであろう。

いずれにせよ衰退期の日本は「みんな」が作れない。経済的にみんなを抱き込めないからだ。

一方、人工的に「みんな」を作ってしまった中国は別の問題を抱える。つまり「みんなでない」と感じる人たちが出てくると彼らを理論上統治できなくなる。結局は経済的に満足感を与えておかなければならない。香港の場合はいずれ中国の一部になる。この時に香港のみんなが中国共産党を信任しないという状況になれば、彼らの統治の正当性が破壊されてしまう。

新疆で何が起こっているのかはわからないが、漢族支配の共産党を信じないウィグル人が大勢いるとしたらそれは不都合な存在として隠蔽されるだろう。ウィグル人のみんなが共産党を支持しているという図式が崩れてしまうからだ。チベットにも同じことが言える。中国がこれを隠せるのはチベットや新疆が奥まった地域にあるからだ。ところが香港は資本主義社会への窓口として西側に開かれておりそうした隠蔽はできない。

そうなると中国は香港人の不安(例えば住宅の不足など)を解消することでデモ勢力から「みんな」を引き剥がすることになるだろう。結局気持ちをつなぎ止めておけるのは経済的な成功だけでそれが止まれば中国は今の体制では多分維持ができなくなる。意思決定の失敗を受けとめるという意味での主権者がいないからである。