台風19号の不安と止められない社会

台風19号が過ぎ去って被害状況が見えてきた。長野県から関東地方を挟んで岩手県あたりまで大規模河川の決壊と浸水が相次いだようだ。教科書で習ったような大河川が軒並み被害を受けた。21の河川が氾濫したという。そんな台風だった。




しかしよく聞いてみると「最近は氾濫したことがない」だけで実際には氾濫の履歴はあったようだ。つまり日本の治水というのは被害の先延ばしになっているということがわかる。大きな堤防を作れば数十年間被害を食い止めることができるが、その分一度被害が出るとその影響は甚大なものになる。そもそも川の土砂が作った土地(沖積平野)の上に住んでいるのだから当然のことなのだ。かつての日本人は沖積平野沿いの谷筋に家を持っていた。古い集落は今でも高台に建っているはずである。

だが、高度経済成長期にそのことを忘れてしまった日本人は、Twitterで民主党の政策が悪かったなどと言い合っている。かつての治水の歴史を日本人は忘れてしまったのだろう。どこから来たのかということに興味を持たず他者への罵倒に走る人たちが保守を自認している。

またコミュニティも大きく損なわれていることがわかった。マスメディアや国と一人ひとりの間を取り持つ存在が消失しかけている。

現在の保守・中道政権は過疎地域対策に興味はあっても都市コミュニティの構築にはほとんど興味がない。彼らは古いものも守れないし新しいものが作れない。こうしてできたのが砂つぶのような社会である。

概念的なことはさておき、予算制約は深刻な問題を引き起こしている。千葉県ではヘリコプターを持っておらず千葉県の自治体にもヘリコプターを持っているところがほとんどないということだ。千葉市は二機持っていて、一機は市内の様子を把握するのに使われ、一機は福島県に貸し出したそうである。

また香取市の氾濫対策に千葉市が入るという話もあったそうだ。のちに自衛隊が入ることになり収まったようだが地域によってはかなり人手不足が顕在化しているところがあるようだ。

国は権限と予算を手放したがらず、したがって地方自治体も広域連携や災害対策は国の仕事だろうと思ってしまう。間がすっぽりと抜けてしまっているのだ。

江戸川区では「区内全域が避難対象になった」そうだがどこに逃げていいかわからないという人もいたようだ。それについて呟いた人が逆に「なぜ普段から準備していないのだ」などと叱られているTweetが流れていた。日本人は不安を共有できない。不安を共有すると弱者とみなされ逆に「準備が足りない」とか「意識が低い」などと叱責されかねない。コミュニティはすぐには作れないし、いったん壊れてしまうとこのようなことが起こる。助けを求めた人に将来助けが必要になるかもしれない人が「マウンティング」をかけてしまうのである。これがリーダーや統治者のいない社会の実情である。

調整は効かないがなんとなく動いている社会では「目の前の問題は無視しろ」という圧力の他に「とにかく今動いているものを止めるな」という圧力がかかる。そしてその圧力を受けるのは人が足りなくなっている現場である。運送・配送の現場でもかなり悲惨なことが起きているようだ。

JRは電車を止めて無理に通勤者が出てこないようにした。前回台風15号の時には一部が止まったために「行けるところまで行こう」とした人たちが津田沼駅で何キロにも及ぶ列を作ったりしたからだろう。今回、確かに鉄道では混乱は起きなかった。

ただ「自己責任」にすると必死で職場に到達しようという人がたちが出てくる。自分たちの手で自分たちのオペレーションが止められないのである。

Twitterでは「帰りの電車が見つからないなら働いた後に適当に泊るところを探せ」というような配送現場がでているというような話が出ていた。真偽はわからないがありそうな話ではある。

お店に品物がないことにも耐えられなくなっている。コンビニではずぶ濡れで品物を運んで物流を支えた人たちもいたようだし、トラックドライバーを休ませるなという話もあったそうだ。こうした話がちらほらとTwitterで流れてくる。どうにかならないものかと思う。

全体として「止まったら死んでしまう」というような強迫観念にとらわれているという印象を持った。日本は補給が十分でないインパール作戦を戦っているのだが、一体何と戦っているのか、誰の指示で戦っているのかがわかららない。だからとにかく戦い続ける。多分疲弊した人たちから徐々に消えてゆくだろう。政治はそこにあるがすでに不在になっているのだろう。そしてそのことに誰も憤らなくなってしまっている。

今回も日本には自然災害が多く「何かあったらオペレーションを止めざるをえないほどの被害が出る」ということを学んだ。だから何かあったらオペレーションを止めて「復興に全力をあげましょう」といリーダーか統治者が必要なのである。日本人はこれまでもそうしてきたし、これからもそうせざるをえない。

だが、どこから来たのかどこへ行くのかを全く気にしない「自称保守とやら」からはそんな話は聞こえてこなかった。これが我々を不安にさせている。