洪水が去ったあとでバベルの塔を見た

台風19号の死者が50名を超えたようである。朝日新聞によると54名が亡くなっており16名が行方不明だということだから合計すると70名になる。その後の報道でも増え続け、70名以上になるのは確実なようだ。




台風一発でこんなことになるんだと自然の驚異の恐ろしさを感じる。しかしそのあとの出来事はもっと恐ろしかった。人々は自然災害の脅威を目の前にして罵り合いを始めたのである。

最初の違和感は二階幹事長である。台風災害がまずまずで収まったと言い、批判が出ると撤回した。世論の反発を期待した野党だけが騒ぎ、自民党幹部たちは何も言わなかったようだ。そのあと予定していた通りに予算委員会が再開された。台風15号よりも内閣改造を優先した安倍政権らしい対応だった。「心ない人たち」とはまさにこういう人たちの事をいうのであろう。

今回の台風の第一の教訓は「自分たちのところでなくてよかった」が間違った安心感を与えるということだ。千葉の人たちは停電被害や風でなぎ倒された木などを目の前で見ているので過剰に身構えてしまった。一方で、台風15号で被害に遭わなかった人たちは、事前に未曾有の雨をもたらすだろうという情報が出ていたにもかかわらず「まさかうちがこんなことになるとは」と口を揃えた。同情はしても当事者意識を持たなかった人も多かったのだろう。

今高度経済成長期に推進した治水事業が想定する以上の自然災害が起こっている。だが、日本にはもはや高度経済成長期並みの土木工事を行う余裕はなく、したがって「どう逃げるか」に頭を切り替えなければならないのかもしれない。自然は我々の想定をはるかに超えてくるということを謙虚に受け止めるべきであろう。かつてならそれは「神の怒り」などと説明されただろう。

ところがTwitterでは堤防が壊れたことで、やはり民主党政権は間違っていたというTweetが飛び交っている。自然の脅威を目の前にしてもまだ自説にこだわっている人が多いということがわかり慄然とする。そうまでして勝ちたいんだと思うと同時にこの恨みがどこから来たのだろうかとも思う。

第一に「弁舌の爽やかさ」に対する恨みなのではないかと思う。日本は学校で自分の説を論理的に伝える勉強をしない。それでも頭の良い人たちは自分の説を伝える術を身につけてゆく。その他大勢の人たちは自分たちの気持ちを伝える術もなく。不安を共有することもできずに社会人になってしまう。彼らは時には鬱屈した感情や不安を持つだろうがそれを解消する術を持たない。そこでそれを晴らすためにこうした機会を利用してしまうのである。民主党への怒りはそこに向いている。

武蔵小杉や世田谷といった高級住宅が被害にあったことでヤフーコメントには「あんなところにマンションを建てるからだ」などといったコメントが並んでいた。どこかやっかみの気持ちがある人たちも多いのだろう。彼らもまた妬みの気持ちをぶつけている。SNSはこうした我々が持っている恨みや妬みの気持ちをありのまま映し出す。

今民主党批判をしている人たちは洪水被害を受けなかった人たちだから、自分たちは助かった(つまり被害は他人事だった)と勝手に想定した上で、自分たちが助かったのは<あの憎き>民主党政権が堤防を妨害しなかったからだと勝手においてしまう。この「他人事でよかった」という気持ちは正常性バイアスを強化する。そのうち現体制を支持しているから自分は安心であるし安心であるはずだという間違った認識が生まれることになる。政治は実は何もしてくれないからこうやって自分たちを慰撫するしかないのだが、裏側には庶民が怒りを持っても何も変えられないという諦めがある。

この「自分の身に災厄が降り懸からなくてよかった」と考えたのは何も庶民だけではなかったようだ。二階幹事長はまず「地元でなくてよかった」と考え、次に東日本大震災クラスの災害が起これば自分たちの地位が危ないぞと考えたのだろう。これも「自分たちでなくてよかった思考」である。気持ちはすでに自分の地位をどうマネタイズするかに向いており国家の危機に関心はない。そして国民はもはやそれに怒らない。怒ってもどうにもならないことを知っているからだ。

この刃はすぐに自分たちに向く。自分たちが同じ目にあっても国や社会は助けてくれないだろうなということが否応なく自覚されてしまうからである。こうして私たちの社会は少しずつ壊れてゆく。あとできることは自己防衛に務めることで、具体的にはお金を使わずにとっておいたり、スーパーで食料を買いだめすることくらいになってしまうのである。我々の社会はもはや危機を叫ばない。

私たちが本当にショックを受けているのは高度経済成長期に克服したと思っている問題が実は解決していなかったということだ。このまま堤防を積み上げていっても不安を拭い去ることはできない。もともと沖積平野や氾濫原で暮らしてきた我々日本人は、堤防決壊を事前に察知して逃げる手段を考えたり、何かあった時に生活再建ができるような保険制度の拡充などを考えたほうが実は良いのかもしれない。また地下や低地に家を建ててそこに高価な機材をおくのは止めたほうがいい。堤防を高く高くするより普段から退避できる回数を増やしたほうがいいかもしれないのである。

だが、我々の社会はこうした気持ちの切り替えができずにいる。不安だから誰かを罵り、自分たちでなくてよかったと考え、それが油断をうみ、新しい不安を生むという悪循環である。

だが人々の罵り合いを見ていると、どうやら当事者になるまで人々は考えを改めるつもりはないらしい。私たちはこうした人々を説得できない。潜在的な不安を抱えつつ傲慢になった人々に届く意思疎通可能な言葉ないのだから、それはまさに現代版のバベルの塔である。言葉は通じても気持ちは伝わらないのだ。