菅原経産大臣の辞任と安倍政権の無気力

菅原一秀経済産業大臣が辞表を提出した。2500円くらいのメロンを配っていたというような話が出ていたが香典が最終的に駄目押しになったらしい。一連の経緯を見ていて心配になったことがある。それは安倍首相の任命責任ではなく、その無気力さである。




菅原さんの評判は最初から悪かった。Twitterを見る限りは野党や野党支持者はかなり反発していたようだ。だが、世論には全く影響がなかった。政権側はこれを容認だと見ているはずだ。さらに、今回の香典の件は一連の騒ぎが起きていた10月17日に起きている。菅原さんは「自分は守られていて何をしてもいい」と思っていたのだろう。こういう人が内閣にいて「自分たちは何をしてもいいのだ」と考えながら日々の政治を行っていたことになる。恐ろしい話である。

そこで、彼らはなぜこのように気楽な気持ちで政治に臨めたのかという疑問が湧く。

新聞は知っていてこの手の話を書いてこなかった。マスコミが知らなかったはずはないので積極的に扱いたくない事情があったのだろう。テレビはこの間韓国の法相の件を面白おかしく取り上げてきた。自分たちの身の安全を最優先に考える大手マスコミは自国の政権の腐敗は追求しないだろうということを政治家たちは知っているのだ。

今回の一連の辞任劇のきっかけになったのは官邸に嫌われても構わない週刊文春であった。記者クラブに入っていない(つまりお友達ではない)メディアだけが政権を追求できた。だが、その追求も政治的な正しさのためではない。商業主義である。食べるためにやっている。ゆえにこの追求劇が政権のマインドセットに本質的な影響を与えることはないだろう。

安倍首相が菅原さんを積極的にかばうような様子は見られなかった。今回「抵抗」を示さなかったところから菅官房長官との間に緊張関係があるからだろうという観測が出ている。

ところが面白いことに後任の梶原弘志(梶山静六さんのご子息ということで「自民党世襲名誉クラブ」の一員である)も菅派なのだそうだ。菅原さんも菅さんに近しいとされているのだが、後任も菅派ということになれば「通産省は菅さんの領地だ」と認められていることになる。

ここから「安倍首相の任命責任」を問うてもあまり意味がないことがわかる。そもそも有権者は政治に興味をなくしているので「誰が大臣になっても同じだろう」くらいしか思っていないだろう。だから、安倍さんに説明責任を求めない。

もし安倍さんにやりたいことがあれば「それをやるのにふさわしい人」を大臣に選ぶはずだ。だから説明責任が出てくる。ところが安倍さんは明らかに「派閥の言ってくる人を適当に入れよう」としか思っていないのだから、つまりやりたいことがないのではないかと思われる。菅官房長官にやりたいことがあるのかはわからないのだが、少なくとも形式的には説明責任を果たす必要はない。結果的に誰も責任は取らない。

ここからわかるのは、有権者は特に政治家には何も期待しておらず、首相にもやる気がなく誰も責任を取るつもりがないということだ。安倍首相は憲法がやりたいのだろうと思うかもしれないが、そのための布陣を敷いている形跡もない。単にいろいろなところでみんなに「議論しようよ」と言っているだけだ。誰も責任を取らず、どこに行きたいのかもよくわからず、とにかく「今のままでいてくれればあとは何も言わない」という政治環境である。

ここで一生懸命に働いた人が一人だけいる。食べるためにネタが必要な週刊文春のスタッフだ。一生懸命に張り込んだ結果検察も見逃していた事実を掴み現職大臣を辞任に追い込んだ。

ここからやる気のなかったもう一つの集団があったことがわかる。週刊誌が一生懸命張り込めば見つけられた事実を検察が見つけられなかったのはなぜなのだろう。これは検察の怠慢でもあった。だがもはや誰も正義には関心がないのだから検察の怠慢を嘆いてもあまり意味がない。

ここに型通りに「首相の説明責任を問う」という野党の歌舞伎質問が入る。すると与党支持者は安心して「野党は政権批判しかしない」と言い続けることができる。なんとなく政治的な言論に参加できるような気分に浸れるのである。

日本人は自分たちの未来には希望を感じていないが、かといって今は困っていない人が多い。もう考えてもどうしようもないという諦めが静かな堕落を生んでいるのではないかと思う。