政治議論は勝たなくては意味がない?

別冊日経サイエンス「孤独と共感」を読んだ。コミュニティについて学ぶのに良いのかなと思ったのだが意外と政治関係の話題が多くびっくりした。この本はもともと経営学でいうところのハーバードビジネスレビューみたいなものなのだが、政治的な分断が進んでいるアメリカでは問題意識や危機感を持っている学者が多いのかもしれない。




この中に「勝つための議論の落とし穴」という短い論文がある。議論の仕方によって考え方が変わってしまうという話である。

議論には学ぶための議論勝つための議論がある。アカデミズムの世界では議論は学ぶために行われることが多い。ところが政治的分断が進むと勝つための議論が横行する。勝つための議論では相手を打ち負かすことが議論の目的になっていて、人々は相手から学ぶことに興味がない。以前から政治議論はネットワーク的な島を作るということは知られていたがトランプVSクリントンの時期からアメリカでは二極化した議論が目立つようになった。あまりにも生産性が低く愚かに見えるので「どうしてこうなったのだろう」と考える人も多いのだろう。TwitterやFacebookでは敵対的な議論の方が広まりやすいという。つまり、SNSは議論分断の温床になっているようだ。

数学や科学には正解があることは明確とされるが、イデオロギーはその人の意見であり客観的な正解がない可能性が高い。それでも人々はそこに客観的な正しさを求めようとする。そしてどちらが正しいかを競い合うようになるのだ。

イデオロギーに正解があると考える人は自分と意見が異なる人と生活を共有するのを好まない。「意見が間違った人とは暮らせない」と考える傾向が強いということはこれまでも知られていたようである。「客観性があるだろう」という考え方が「多様性の否認」という行動に結びついている。

  • 考え方→行動

ところが政治的議論で勝つための議論を奨励すると「政治的意見には客観性がある」と考えるようになる傾向があるということがわかったという。つまり因果関係が反転している。実験ではその議論の時間はわずか15分だった。15分で考え方が変わってしまうのだ。

  • 行動→考え方

つまり、勝つための議論は多様性の否認というフィードバックループを生むらしいということがわかる。ここまではわかりやすい。

ところがここから議論が怪しくなる。論文を書いた人は明らかに多様性を重要視している。つまりいろいろな意見を受け入れるためには決めつけを排除すべきだと言っている。これは典型的にリベラルな姿勢だろう。

だが、このあと論文の議論は迷走しているように見える。地球温暖化に懐疑的な人の意見を受け入れる議論をするのは「間違っている」のではないかと言っている。リベラルにとって環境問題は重要でありその科学的知見は明らかだが、もしかしたら科学が地球温暖化の全容を知っているという前提そのものが間違っているのかもしれない。リベラルな人はそこを認められないのだろう。すでに「勝つための議論」に汚染されているということになる。

そこで論文の筆者たちは「温暖化懐疑派を受け入れてどっちつかずの態度」をとるのは間違っているのではないかと逡巡したのち「どちらの議論モードが”最善”であるかを直接的にきめることはできない」とまとめてしまっている。

もともと「なぜSNSが介在する現在の政治議論が決めつけと分断を呼んでいるのか」ということについて何も示唆はないので、どうしたら議論を「正常化できるか」というソリューションは提供しない。知見で終わってしまうというのが経営学との一番大きな違いだろう。

ただ、この短い文章を読むと議論で勝ちたがるのは日本人だけではないということだけは明白にわかる。さらに議論で勝ちたがっている人がいたら勝たせてやったほうがいいのだろうな。洋の東西を問わずどっちみちそうした人たちからは何も学べないだろう。つまり時間の無駄なのだ。

別冊日経サイエンス「孤独と共感」は政治議論がなぜ荒れてしまうのかということを考えるために役に立つ多くの知見が掲載されている。他にもトランプ大統領のような明白な嘘つきが信頼されるのはなぜかということを扱った論文や、いじめ加害者として暴力的になる人はどんな人なのかということを扱った論文がある。