フリーライダー討伐と世界で頻発するデモの関係について夢想する

今回の「政治家が嘘をつく」というエントリーはリツイート率が高かった。肌感覚に合致しているところがあるのだろう。だがこの嘘をどうやって防げばいいのかという知見は示されていない。競争から協力へという流れを作るためには一体何が足りないのだろうか。最後に「孤独と共感」で協力について読んだ。無私は最高の戦略というタイトルが付いている。これを読んでいて意外なところに着地した。それは破壊的なデモの正当性である。一昔前ならかなり危険思想として叩かれたのではないだろうか。




人間は親族だけでなく知らない人にも手を貸すことが知られている。極めて未開な文化でも全く協力のない文化は見られないので、人間は遺伝的に協力する性質備えているのではないかと考えられる。

しかし、政治哲学の分野では利己性が協力を生むという説が有力だった。マンデンヴィルは「蜂の寓話」という著作で「個人の悪徳が公共の利益を支えている」と主張した。マンデンヴィルは自分の利益のために動けば考えうる最大の善が得られるので人間がエゴイズムをやめたら社会は崩壊するだろうとさえ主張した。

19世紀の経済学者と社会科学者はホモエコノミクスという仮説を立て、人間は自分自身の利益を最大にするために行動しているのだろうと考えた。そして、進化生物学者もその考えを支持している。相手に協力してやる代わりに見返りを期待したり、自分の評判を上げるために善行を積んで見せるというわけである。こうして人々は協力を説明しようとしてきた。

ところが、実験行動学で違った知見も見えてきた。人は懲罰を与えるとき自分の利得を犠牲にすることがあるというのだ。これは個人の功利最大化仮説では説明ができない。

240名を対象にして20ドルを賭けた実験を行った。それぞれが手持ち資金の中から投資を行い投資金額の60%増しを均等に配る。実はこのゲームではフリーライダーを作っている。つまり自分は出資しないで見返りだけを受け取ることもできるのだ。フリーライダーは持ち出しがないので純粋にトクなのだ。

人々はフリーライダーを抑制するのにどれくらい犠牲を支払うのだろうか。今回はフリーライダーを罰することができるというルールを作った。フリーライダーが出てきたら懲罰するかどうかを尋ねるのである。この時参加者はコストとして配当から1ドルを支払う。1ドルでフリーライダーの資産を3ドル減らすことができる。プレイヤーはその都度変わるので懲罰にはフリーライディングを抑制する効果はない。ゲームはメンバーを変えて6ターン行われる。

フリーライダーを罰しても支出をした人の利益が増えることはない。それでも80%が少なくとも一度はフリーライダーを罰したそうである。公益に平均以上の投資をした人ほど他人を罰する傾向が強かったそうだ。罰せられたプレイヤーはそのあと平均で1.5ドルほど投資を増やすようになったという。

次に投資額を知らせた上で罰則規定を設けないゲームを作った。この場合95%の人が公共への投資額を控えるようになった。最終ラウンドでは60%が投資をしなくなってしまった。

最後にメンバーを固定して10回ゲームを行った。メンバー入れ替えがあった場合よりも公共への支出は50%増えたという。

結果的に、人は懲罰効果がなくてもフリーライダーを罰する傾向があり、フリーライダーが野放しになると協力を抑制するということがわかる。そしてフリーライダーが社会的に抑制できるということがわかると協力が促進される。

この文章は個人主義の欧米人が書いているので、フリーライダー抑制はもともと遺伝的に組み込まれた行動様式なのだろうと類推しているようである。日本のように相互監視が厳しい社会ではまた違った感想を持つ人もいるかもしれない。日本ではフリーライダーは文化的に極めて嫌われるし、学校の集団生活を通してそのことを叩き込まれる。

文章は、もともと人間には自発的にフリーライダーを罰する遺伝的(生得的)傾向がありフリーライダーが排除されるのを見たり経験することによって、群れからフリーライダーが排除されて協力が促進されるのではないかというような結論を出している。これは神の見えざる手の補正版である。

この文章で重要なのは「協力」が極めて明快に利得を増やすことが理解されているという点である。この場合フリーライダーを取り除くことで人々は公共にアクセスしやすくなる。ところが現実世界では協力をしても利得が得られるということは明快ではないし、誰がフリーライダーなのかということも実はよくわからない。ルールが明快でないということはつまり情報が明快でないということなのだから、コミュニティを整理するか情報を明快にすることでフリーライダーの問題は解決され、結果的に協力が促進されるはずである。

日本の場合文化的にフリーライディングを抑制する傾向が極めて強い。現実社会ではメンバーが固定されているので懲罰がしやすいからだろう。今でもテレビで不倫や脱税などの逸脱行為は極めて強く排除されてしまう。ところが文化的にフリーライディング抑止効果が高すぎるため、それを超えてしまうと社会的な対処が極めて難しくなる。するとゲームは一転して「持ち出しをしない」というルールになる。現在では日本人は政治に口出しせず、法人は税金を支払いたがらない。人々は消費を控え自己防衛に走り、それが結果的に経済を縮小させている。

こうした環境は何も日本にだけあるわけではないようだ。実際にはSNSは協力を促進する方向ではなく競争のための議論を促進し協力を阻害している。人々はお互いの話を聞かなくなり協力どころではない。破壊が先行する中SNSが現在目指しているのは構造の破壊である。世界各地ではデモが起こるようになり手法がSNS経由で拡散している。今デモが起きているところでは「協力」が生きているのだが、それは生産ではなく破壊の方向に向かう。

2019年10月は世界で同時多発的にデモが起こった月として記憶されることになった。多分今の経済構造は人々が把握できるより大きすぎるのではないかと思う。戦争によって経済構造が破壊されることがなくなった現代において、それに変わる何かが生まれてきているのかもしれない。それは法的にはいけないことなのだが、善悪を超えたところで何かが起きているのかもしれない。

日本社会はこれまでコミュニティの抑止効果が高かった。お互いがお互いを監視する体制なのでいざという時に協力して破壊するという体制が作れない。このため日本は穏やかな衰退と漠然とした不安という道をしばらくは歩み続けるのかもしれない。