安倍政権のせいで教育の劣化が止まらない

最近教育の劣化が止まらない。安倍政権のせいだと思う。「全てが安倍せい」というのは非難されることが多いらしいのだがやはりそう思う。田崎史郎さんが「今回の英語試験は文部科学省が一部の自民党議員と組んで勝手にやった」と言いだしたのを聞いて切実にそう思った。




その日はTBSで教師いじめの蔓延についてやっていた。関西を中心に事例が出始めているようだが、問題はかなり前から起きていたらしい。先生の精神疾患による休職は毎年5,000名程度で横ばいになっていて、自殺者も100名単位で出ているようである。忙しすぎて精神疾患になり休職する人も多いということだそうだ。多分民主党政権時代から続いている問題ではあるのだろう。

こうした問題をテレビが解決することはない。「あんな問題があった」とか「こんな不都合がある」という事実は並べ立てるのだが、仮説を立てて根本を整理しないと問題解決につながらないだろうし、そもそも絶対になんとかしないと国が危ないという危機意識がなければ問題は解決ができない。

そこで、まず「教育は自分たちで予算を決めることができない」という点と「教育が密室化している」という点を考えてみることにして考えをまとめ始めた。

教育予算は国が決める。このため労働者である先生は自分たちの裁量で待遇を決めることができない。また公務員である公立学校の先生もストライキが認められていない。この場合使役者である納税者はできるだけ安い費用で高い効率を求めることになる。つまり国民というのは潜在的にブラック企業の経営者であり現に教育現場はブラック企業化している。現在は国民の支持の元、学校教育の無償化(実際には社会主義的に国がすべての費用を管理しようということである)が進んでおり、この傾向が強まることになるだろう。

これだけでも由々しい問題なのだが教員には社会経験がないのでこれが良いことなのかそうでないのかということがわからない。多分企業を経験した人は「従業員が自浄能力を発揮できない」環境について違和感を訴えるはずだが、教員自治ではそれが起こらない。その意味ではスポーツに似ている。相撲や各種スポーツの自治も選手上がりで社会人経験がない人たちがマネジメントをおかしくしているという問題だった。加えて先生はストライキもできない。

多くの先生は学校を卒業した後すぐに先生になり、その後はずっと学校という極めて特殊性の高い世界で過ごす。そうしてゆでガエルのように異常な環境に慣れて行き、それに最適化した人だけが生き残るという仕組みになっている。

日本は富国強兵で生き残ってきた国であり、従来基本教育を充実させることで生き残ってきた国である。つまりこれは保守的にいえば国家の危機なのだ。だが、日本の保守は死に絶えてしまっており世間に昔を思い出すように訴える政治家はいない。リベラルと呼ばれる人たちも教育を政争の具としか捉えていない。日本のリベラルは教員に支えられてきた左派を源流の一つに持っている。彼らも「聖なる教員自治」という肥大した自我から抜けられないだろう。すでに歪んでしまっているわけだからこれが問題を解決することはないはずだ。

特に安倍政権はあまり教育には熱心ではない。最近では英語入試改革という名目で企業への利益誘導が行われていることがわかってきた。企業を入れて英語入試改革をしようという話だったのだが、田崎史郎さんが「どうやら私的企業にはそれぞれの議員がついていた」という話をし始めた。田崎さんにしては思い切ったことをいうなあと思っていたのだが、どうやら下山元文部科学大臣らを指差して政権から問題を切り離そうとしているようである。

加計学園問題では特定企業だけを優遇したことから問題になったので、これが政権スキャンダルになるということはわかっている。今回は他の企業も入れてアリバイ作りを図ったのだろう。こうしたことはすべて議会を通じて合法的に行われており有権者も特に興味を示さなかった。ところが萩生田身の丈発言が「教育改革というのはつまり地方切り捨てである」と認めてしまった。これが今から炎上することは間違いない。

ところが田崎史郎さんとシナリオを書いた誰か(誰だかわからないが)は重要なことを忘れてしまっている。教育には改革が必要である。そのためには文部科学省の協力が欠かせない。にもかかわらず「文科省が勝手にやっている」と言って切ってしまったのだ。自分たちさえ炎上しなければあとはどうなってもいいという安倍政権にはもはや教育を改革することはできないだろう。

リーダーシップがない政権でそれぞれの利権に興味がある人たちが教育を食い物にしてきたことは間違いがない。安倍政権はそれをひっくるめて隠蔽してきたのだが、今回その一部を認めてしまった。問題の背後にあるのは「最初からリーダーシップが全く欠けてた」という本来の姿である。

このことを象徴するような動きが神戸で起きている。神戸市では長い間革新市政が続いておりその反発も強かった。この事件をきっかけに揺り戻しが起きている。

朝日新聞と対決していることからわかるように、背景にあるのは「革新への差別意識」との「エスタブリッシュメント」なのだろう。Twitterには「神戸市長の久元喜造です。神戸はいま大きく変わりつつあります。市民のみなさんの知恵を結集し、みんなで神戸を見違えるような街にしていきましょう。」とかかれており「保守という改革」の香りがする。

彼らは自分たちの目的のために教育を利用するつもりなのだろう。日本の保守は本来自分たちの国力の源泉がどこにあったのかを考えるのをやめてしまったようだ。古ければそれで自明の価値があるわけではない。我々の祖先が「どうやったら中国や西洋に取り込まれずに済むか」というアイディアを懸命に蓄積してきたのが本来の保守である。その努力の結果作られたのが日本文明である。こうしたアイディアは堤防のように我々を外の世界から守ってくれてはいるが、堤防はメンテナンスしなければいつかは決壊してしまう。保守を名乗る彼らは、多分それを忘れてしまっっているのだろう。