おっさんの国家観と全体主義

ボランティアでQuoraで毎日「スペース」という政治ブログを勝手に担当している。Quoraはそもそもは質問・回答サービスなのだが、ROM好きな読者が「簡単に国際情勢を知ったように思える」というような読み物を目指していて、同じテーマを扱って吐いてもこのブログよりはずいぶん大人しめだ。そこに「ちゃんとした国家観がないのに政治を語るな」というクレームが入った。クレームなのだが「本当は話を聞いて欲しいんだろなあ」と思った。




経歴を見ると「一部上場企業でたくさん部下がいた」と書かれている。こういう人が引退して家にこもるようになると誰も話を聞いてくれない。小さなクレーム風のコメントをいろいろなところに書いているようだ。

以前同じようなクレームに「色々とご存知なんですねえ」というコメントをつけたことがあるが、その後で様々なクレームをつけてくるようになった人がいる。社会的認知には報酬系に働きかけるので麻薬のような効果がある。報酬が切れた時にもっと辛くなるだろう。孤独と共感という本を読んで高すぎる自我は攻撃性を助長するだけだということがわかったので、今回は「彼が答えを書ける場所を用意してあげることくらい」しかできないんだろうなあと思った。

「ちゃんとした」が翻訳しにくかったので「あるべき」として質問を立ててみた。案の定「日本は神武以来の歴史がある国」であるから日本はもっと世界から賞賛されるべきであるという長文の回答が返ってきた。これが「この人にとっての当たり前」なのだろう。会社では賞賛されるがSNSでは黙殺される程度の話でしかない。

こういう大人がたくさん組織の中に囲われているというのが日本社会の残酷さだ。おじさんたちは定年間際になると肥大した自我で問題を黙殺し「自分たちの当たり前」を他人に押し付けるようになる。これが社会と決定的にずれていて日本社会や組織を死滅させるのだ。

SNSでクレームを言われると「自分が攻撃されている」という気分になる。つまり、いわゆる「くそリプ」の類なのだが、くそリプにも有用性はある。これに対してリプライを書いた。そこで考えたのが「全体性の話」である。この方に響くことはないだろうが普段考えていることの良いまとめになった。

国家にしろ社会にしろ健全な状態では特に違和感は感じられない。ところがある部分が痛むとそこが全体から切り離されているように感じられることがある。これが全体性が損なわれた状態なのだが、日本語にはこの健やかな全体性を表す言葉がない。この感じを伝えるにはどうしたらいいのか?ということを考えて思いついたのが昔学校でシスターに教えてもらった小指の話だった。小指に怪我をするといつもの素指のことが気になる。神様はそのようにしてあなたのことを気にかけているのですよという話につながっている。

この話は子供に「全体性」を伝える話である。キリスト教において神は人格ではなく原理なのだろう。

健康な時に我々は小指の存在を忘れている。しかし怪我をするとそれが部分として切り離されて意識される。それが全体性が損なわれたという感覚である。切り離された側はおそらく孤独を感じ周囲に痛みを伝える。

この全体性を取り戻すことを英語では健康(healthy)と言っている。英語にはwhole/heath/healという一連の言葉がある。このブログではハイル・ヒトラーの意味という記事で取り上げたことがあるが、ドイツ語にも同根の言葉があるのだ。いわゆる哲学用語ではなく割と一般的な感じである。wholeという全体性が保たれた状態があり、それを回復するのがhealなのだ。そしてhealが保たれたのがhealthyなのである。

ところがこの全体性の話を日本人はしない。おそらくはだが恵まれた自然環境に囲まれていて「村に全体性がある」ということが意識されないからだろう。あまりにも当たり前すぎてこれまで意識する必要すらなかった感覚ではないだろうか。

西洋には全体性を示す哲学体系とそれを表す言葉がある。ところが日本ではあまりにもありふれているので「里村」のような全体性がある環境をいいあらわす言葉そのものがない。そして村を失った多くの日本人がこのことについて悩んでいる。

ある人たちは反日という言葉を使って小指を切り離そうとしている。痛みを攻撃と捉えているのだろう。逆に小指側には「全体主義」という反発の用語がある。「健全な全体」という感覚を知らない人は小指だけで生きてゆこうとするのである。

この全体としての一体感がどうやって生まれるのだろうかと考えてみたのだが、それはおそらく将来に対しての見通しや安心感という主観似寄るのではないかと思う。主観なのだから政体のようなシステムや法律を語ってもそこから全体性を再現することはできない。

全体性が失われるとどんな政体でも痛みが出てくる。ヨーロッパでもアメリカでも政治の分断が起きていて「世界から全体性が失われていること」がわかる。特に民主主義というのは違いを乗り越えて同じ運命共同体として生きて行こうということなので、全体性が損なわれると民主主義そのものが失われる。

だが、全体性が損なわれた状態で議論を始めてしまった人は最初から危機感に彩られていて自分の意見に固執するだろう。いわば溺れている状態なので、全体性をもう一度考えてみませんか?という声は届かないのだろうなあと思った。

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