安倍総理の花見会場運営の何が日本経済を破壊するのか

今回のお花見の件で「安倍総理に経済運営を任せておくと無茶苦茶になる」ということに多くの人が気がついたのではないだろうか。次の課題は「ではそれをやめさせるのか」ということになる。おそらくすぐさま辞任ということにはならないと思う。二つ問題があるのでそれぞれ考えたい。




安倍政権のお花見の問題は共有地の失敗に見える。みんなの税金で運営される花見会場はある意味フリーライディングの象徴のようなものだ。現状を見てみると会場に人が増えすぎて花見そのものが成り立たなくなっていたようだ。食べ物も不足していたのではないかと思われる。これは共有地特有の問題である。だが花見は国が管理しているはずで共有地ではない。だから本来はこれは起こらないはずの問題である。フリーライディングになるのは国会のチェック機能が働いていなかったからだ。

しかし、フリーライディングであってもこっそりやっている分には問題は小さい。安倍政権の花見運営は「あの人を呼んだのに別の人を呼ばないと恨まれる」という状態だったようだ。国会議員が勝手に決められるので却って「選別すると恨まれる」ということになってしまったようだ。さらに呼ばれた人も自慢して回っていたのだろう。だから結局「配り続けなければならなくなってしまう」わけである。

マスコミは今ニューオータニを追いかけているようだが、あれも「五千円で久兵衛が食べられるなら自分もやってみたい」という気持ちの裏返しだろう。一種のひけらかしになっている。ニューオータニは値引きには応じないと行っているようだが、予算内に収めるのに必死な幹事たちは「取引」の機会を探っているはずだ。ニューオータニの営業はこれから大変な問題に直面するはずだ。

つまり日本型共有地は囲いを作ってもなお「常に足りないものが膨らみつづける」という状態が起こるということになる。さらに花見会場の外にいる人にはまったく恩恵が及ばないから膨らみ続ければ「花見が成り立たなくなる」か「周りの人にバレて大騒ぎになる」ことになる。パーティーが終わるのは決定的なリソース不足でパーティーが破綻した時か、外の人が騒ぎ出した時である。

問題の一端は「国会議員に裁量があるが基準が明確でない」という点だった。そこで、Quoraで「国会議員が誰が恩恵を受けるかを勝手に決めていいのでは?」という質問を出した。当初予想したのは「そういう決まりだから」という答えだったのだが回答は意外と面白かった。

私は多分安倍首相が嫌いなグループだと思われている。つまり今回の件で安倍首相が追い落とされれば「心理的に得をする」と考えられているのだろう。つまりこの文脈がない議論はすぐさま特定の文脈と結びつけられる。つまり日本人は文脈のないところから文脈を見つけ出してしまう特性があるということになる。これは彼らが村社会で生きていて「村人同士の牽制」が政治の本質だからだろう。さらに「問題に関心があるということはそこから利得を得ようと虎視眈々と狙っている」と考えられてしまうのである。

ここで文脈という問題が出てくる。

菅原一秀元経産大臣が退任した。これは公職選挙法というルールがあり「国会議員はその枠の中で振舞っている」のだから「一人だけ抜け駆けするのはズルい」という判断が働いたからである。この場合文脈は「国会議員同士」だったので、議論は淡々と進んだ。

安倍首相と菅原一秀はどこが違うのか?という疑問が出てくる。おそらくは「安倍vs反安倍」というフレームが回答者の中に勝手に作られていて全てをそこに布置する形で文脈を形成しているのだろう。菅原一秀にはそれがない。つまり、安倍晋三はなんらかの働きかけをして自分のポジションと特定の人たちのポジションを結びつけたのだという予想ができる。

ところがこの文脈はその人のインターナルなものであり共有されない。したがって誰が何に賛成し反対するのかはレスポンスを見てみないとわからない。これが厄介だ。

国内だと体制・反体制ということになっているが、ここに例えば香港が絡むと別のフレームが作られる。中国の介入という立場からデモを応援する人(つまり中国は反日なので、その反日に対抗する人はいい人たちなのだ)とデモが体制に対するプロテストだからダメだという人が出てくる。問題の種類ごとにフレームが複雑になり共通の会話ができなくなってしまうのだ。

このことは村では問題にならない。誰がどういうフレームで思考しているのかということがわかっているからである。SNSで政治議論が成り立たないのは公共財としてのフレームがないからである。そうなるとフレームから外れて原理を探るということをしなければならないのだが、どうも日本人にはそれは無理なようである。

回答者の一人は別の質問で「勝手な思い込みで攻撃されることがあって困る」と言っている。社会の上位にある人たちは思い込みによって作られた秩序のフリーライダーなのでそのままでいたいという気持ちはわかる。経済的な合理性があるのだ。だが、自分は思い込みで攻撃されたという経験があっても(つまりフリーライドされる側であっても)自分もその思い込みからは脱却できない。日本人が持っている文脈に関するフレーム意識はおそらくとても強く、ある意味鎖のように人々を繋ぎ止めているのだろう。

と同時に、日本人に向けて政治議論を読ませたい時には公知のフレームというものを想定してそれを前提にして文脈を合わせてやると良いということもわかる。かなりあからさまな誘導であり偏った考え方であっても、日本人は個人と集団のフレームが合致した時に「公平な意見の中にいる」という心地の良さを感じるのではないだろうか。