日本人はなぜニュースが読めないのか – インドのニュースを例に挙げて考える

今回考えるトピックは「なぜ日本人がニュースを読めないか」である。読んでいただくとインドの政治混乱についてもわかるという一粒で二度美味しい仕上がりになっていると感じる人もいるだろうし、ラインが二本あって複雑だと感る人もいるかもしれない。




インドのデモで警官の発砲による死者が出た。Quoraの政治スペースでは解説記事が二本出たのだがなんとなくわかりにくかった。そこでそれを書き直したのだが、その過程で前の二人がわからなかったのが何なのかが見えてきた。

このニュースではいくつかのことが起きている。だがこれだけを見ても実はよく意味がつかめない。

情報が足りない上に思い込みもある。Quoraには中国と民主党系の野党(あるいはリベラル一般)が嫌いな人たちが一定層いる。そこで香港のデモへの関心が極めて高い。リベラルは香港のニュース学生紛争の影を見ている。これが天安門事件への視点を作り、香港につながっている。そして多くの日本人はリベラルが主導するマスコミへの敵対心がある。リベラルがマスコミを支配しているという思いがあるからだ。そこで彼らはマスコミが香港の民主派に肩入れするのを苦々しく思っているのだ。

マスコミを敵視する人たちはSNSという舞台で自分たちの歌を歌いたい。また最近では中国人の参加者も増えており中国を非民主的で遅れた国であると指弾する日本人に一泡吹かせてやりたいい人たちが出てきている。彼らに取ってもSNSは主戦場である。香港デモを敵視する人は中国も嫌いなので、今度はウィグルの話を持ち出して中国人を怒らせる。こうして議論は新しい視点を提供しないままたいてい泥沼に陥る。昔から日本の政治議論に見られる「朝生シンドローム」である。

彼らは例えば「インドでも警官とデモ隊がぶつかって死者が出ているのになぜ国際社会はそれを非難しないのか」とか「イスラム教徒が暴徒になっても問題は解決しないから民主的に議会で混乱を収めるべきである」という主張をしたい。だが、インドのデモはそれだけでは語れない難しい面がある。

  • インドは中国と対立しており、つまりアメリカや日本などとは潜在的な同盟国である。インドは中国と違って民主主義国のはずだ。
  • 政府がネットを遮断してまで民衆を鎮圧するという政府のやり方にも抵抗を感じる。それは中国と同じやり方に見える。

よく森の思考・砂漠の思考などと言われるが、日本は森の中から木々や山の位置を頼りに情報を処理している。おそらく多くの人は一生を同じ森で過ごし、同じ森を見ている人たちとだけ暮らす。森を一生出ないので風景が変わると情報が読み取れなくなってしまうのである。インドのニュースはもう「お手上げ」である。

情報が混乱して見えるようで関連ニュースを探してみようというところにまでは行き着かないらしいが、実はこんなことが起きている。

  1. インドでは国民会議に対抗するヒンズー至上主義のインド人民党を率いるモディ首相が2014年に政権を取った。国民会議はガンジーの子孫がリーダーになり、成長の恩恵を受けない地方の票を奪還しようとしたがなぜか成功していない。
  2. 最近になってジャム・カシミール州(イスラム教徒も多い)の自治が剥奪され、東部のアッサム州でもイスラム教徒を中心に190万人の市民権が剥奪されようとしている。イスラム教徒は民主主義的な手続きで弾圧されている。
  3. 最近近隣三ヶ国(パキスタン・バングラディシュ・アフガニスタン)から流れてくる非イスラム教の人たちの市民権を取りやすくする改定が行われた。これは直接の原因ではなく実はきっかけだった。ここで反発が表面化し暴徒を伴ったデモに発展した。

ここまでくると一応の流れが理解できる。ここでは森を出て高いところに登って新しく情報を探っている。ニュースの場合は「経緯」だし社会学だと「仮説」になる。だが「山に登って全体を見てやろう」と思わない人たちは再びわかっているところ(政局だったり韓国や中国への蔑視だったり)に戻ってしまう。地図は事実ではなく情報を処理するための共有の視点に過ぎないのだが、森の人たちは事実と地図の区別がつかない。だから、森にとじ込もって地図のない議論を再び始めてしまうのである。

一度地図を持つとあとは検索エンジンが解決してくれる。情報はいくらでもあるのだ。

例えば、BBCはインド政府のファクトチェックをやっている。パキスタンやバングラディシュで非イスラム教徒が迫害されているというような事実はないそうだ。つまり、モディ首相らが「イスラム教徒は邪悪」というプロパガンダを展開している可能性が高い。

ここから「なぜインド政府はそんな首相をしなければならなかったのか」ということを想像してみると、おそらく国民会議派との間でヒンズー教徒の取り合いが起きているのではないかという仮説が立てられる。

この仮説はアメリカの民主党と共和党の対立から持ってきた。今のところはトランプ大統領が「Make America Great Again」という単純なフレーズで白人層を魅了している。また保守党と労働党もイギリス人の誇りを取り戻したいという人たちを取り込むためにBrexit住民投票を行った。インドでも全く同じ構造が見られるわけだ。民主主義が最後に頼るのは単純な道徳感情とマジョリティの差別意識だ。

ところが今回の件はこれでは終わらなかった。別の方からコメントをいただいた。アタル・ビハーリー・ヴァージペーイーが首相時代の1990年代に一度インドとパキスタンの間の緊張感が高まり国内でも社会不和が起きていたそうである。コメントを元に調べてみると「アヨーディヤ判決」という記事が見つかった。国内がかなり荒れたようだし、国民会議派は現実的な解決策を示せなかった。

ヒンズー至上主義者に危険を感じたインドでは国民会議でもヒンズー至上主義者でもないシク教徒の首相が出たりしてバランスを取ってきたのだが、今また至上主義者のモディ首相が政権を取り、案の定国内不和を引き起こしたということがわかる。

インドは一般的にカーストと呼ばれる職業集団や人種集団が入り混じったグループが複雑に分かれておりこれを一枚岩に仕立てておくのがとても難しい。コメントをくれた人が指摘していたのは「民主主義が導入されるはるか以前からの社会的構造が背景にある」というインド独特の難しさである。インドでは西洋流の民主主義が成り立たない。中流市民階層が存在しないからだ。

だが、こうしたコメントが出てくるのは「ある程度の歴史観」を提示した後である。つまり、概念的な整理をして地図のようなものを作る人はいないのだが、情報を付け加えたい人はたくさんいるということになる。彼らは彼らで「自分の森からでないまま間違った歴史認識を押し付けてくる人」たちを嫌っている。だから自分の知識を披瀝することがほとんどないようである。別の視点を提示しても受け入れてもらえないからだろう。

日本人がニュースを読めないのは情報がないからでも知識のある人がいないからでもない。おそらくは共有のために地図を作ってみようという発想がない。それができない理由も簡単だ。実はお互いが別の森に住んでいるという認識そのものが持てないのだろう。