ブルゾンちえみが環境問題について言及し叩かれたのはなぜか

ブルゾンちえみという芸人がフォーブスの授賞式で環境問題について取り上げたという。これについてサラリーマン向けの新聞であるゲンダイが論評を書いている。論評というか批評というか批判というか「これは何なんだろうか」という感じの文章である。




これについて最初に知ったのは小島慶子さんのTweetだった。だが、どうも分析が一面的というか面白くない。環境問題や人権問題という理想について語ると叩かれるのは日常茶飯事なので当事者たちがアレルギー反応を起こしていることだけはわかる。そして彼らはそれと戦うことを決めたようだ。

小島さんは意識が高い人を邪魔するなと言っている。では「意識が低いゲンダイ」はいったい何に反発しているのか。意識が低いとはどういうことなのか。

まずゲンダイは「私の意見」としてこの文章を書いていない。なんとなくネットの噂について取り上げていて「みんなが言っているよ」と言っている。これは集団主義から抜けられず自分の意見が持てない人たちの常套手段である。

次に「ブルゾンちえみは最近お笑いに手を抜いていて環境(エコ)ビジネスに進出しようとしている」のではないかと言っている。つまりエコは本業ではないだろう?と言っているのだ。

これについてQuoraで聞いたところ面白いヒントをもらった。人に聞いてみるのは大切なことだ。まずこの人は芸人だから黙っていろというのはけしからんと怒ってきたので松本人志について聞いてみた。芸人がテレビ局を代弁する形で「個人の言っていることですよ」と偽装しながらテレビ局や芸能事務所のポジションを代表することは世間では容認されていますよねと持ちかけてみたのだ。

すると「西野亮廣も叩かれる」という答えが返ってきた。西野さんといえばお笑いという本業があるのに「疎かに」して絵本作りをしてテレビ依存を脱却してしまった人である。彼が叩かれるのは組織を離れても自分の力で生きて行けるからだが、映画化まで来てしまうと叩かれなくなる。ここでなんとなく布置されるものがあった。小島慶子さんもそういえばフリーランスだなと思った。

  • 日本では集団の意見を代表した個人の意見は叩かれない。
  • 日本では個人が意見を言ったり、本業以外のことをやろうとすると叩かれる。

この価値体系はサラリーマンの価値体系である。サラリーマン社会で発言権を得るのにはとても時間がかかる。サラリーマンは個人と集団の境目が溶けてなくなるところまでサラリーマン社会にどっぷりつからないと発言権が得られない。ここに馴染んでしまうと個人の意見は言えなくなる。

さらに、個人は集団に依存する本業を持っている時だけしか評価されない。つまり松本さんの行動が正当化されるのは吉本興業とテレビというスキームに依存してお笑いをやっているときか個人という体裁で集団の意見を代表している時だけである。つまり、タレント(演者)としてコメンテータをやっているときは叩かれないが、個人の意見をいう人は容赦なく叩かれてしまうのである。

これはある意味武士のマインドセットとも言える。武士は藩に仕えると評価されるが脱藩すると浪人扱いになる。これは武士としては不完全な状態である。ゲンダイを読んでいる人たちの中にもそういう武士のマインドセットが生きていると言える。

一方、個人が自分の才覚で新天地を探そうとすると容赦なくバッシングされる。西野さんはそれでも「とても才能があった」のだろう。生き残って絵本作家をやったり自分のプロジェクトを立ち上げることができるようになった。ブルゾンさんは芸人として環境問題に関わろうとすると「本業が面白くなくなったからだ」とか「金儲け目当てに何か企んでいるに違いない」と足を引っ張られてしまう。まだ経済的に成功していないからだ。成功者は何も言われないが、今から成功を目指そうとする人は叩かれる。

この件について書こうと思ったのは、日本の政治の行き詰まりについてソリューションのない悲観的なエントリーを書いたからである。つまり、日本では価値の源泉が損なわれていて新しい源泉を探さなければならない。それができるのは自由に行動する個人だけである。

ところが実際に個人が新規開拓を目指そうとすると寄ってたかって潰そうとする人たちが出てくる。つまり新しい芽を潰しているのだ。いったんは武士のマインドセットと書いたので「格好の良いこと」のように聞こえたのかもしれないが、藩が機能しているからこそ武士のマインドセットは生きてくる。藩が機能していないのに新規開拓者を叩くのは奴隷が逃亡奴隷に石をぶつけているのと同じことである。

だが、ゲンダイには新しいものを潰しているという自覚はないようだ。今回もこの「構造」を探すのは以外と大変だった。つまりサラリーマン向けの新聞は本能的に「脱走奴隷」を許さない構造を持っているのだが、あまりにも日本人の心情に深く根ざしていてそれを抜き出して分析することすら難しい。

さらに分析を難しくしているのは主語の置き換えである。読者はおそらくゲンダイに主語を託し、ゲンダイもまたライターに「ネットの噂ですよ」と言わせている。日本人の奴隷制の根幹にあるのは「誰も主体者として責任が取りたくない」という責任回避の意識である。

おそらく、ゲンダイこの記事に共感した側の人たちはなぜ自分がこれに共感したのかはわからないだろう。彼らは自分たちに向き合わなくてもこの記事が読める。新聞側も「これが受ける」ということはわかっても「なぜ受けるのか」は説明できないのではないだろうか。

だがここで起きていることは明白だ。かつては武士だった奴隷が逃亡者を罰しようとしているのである。

最後に小島さん側の反発についても考えてみたい。今回のフレームでは、小島さんは奴隷が脱走奴隷を叩くことに反発をしているということになる。ただ後ろを振り返ってしまっては奴隷状態からは抜け出せない。実際脱走した人たちがやることは後ろを振り返えることではなく、前を向いて次の機会を探すことだけである。違いはそんなに大きくない。単に前を向くか後ろを振り返るかだけなのである。

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