氷川きよしの転身と自分らしさ

氷川きよしの転身がネットニュースになっているらしい。写真週刊誌で話題になっていたことがあるがどうやらもともと「中性的」な人のようだ。もっと言えば同性愛の傾向があるのではないかと思う。ところがどのメディアも同性愛については書かない。日本ではタブーだと考えられているからだろうが、配慮そのものが新しい壁になっているのかもしれない。




まず「決めつけるな」という点からクリアにしておきたい。文春はカミングアウトということまでは出しているが「何のカミングアウト」なのかという点を書いていない。

何より注目されるのが衣装です。インスタで話題になったドレス姿やピチピチのレザーパンツなどの案も出ているようで、氷川自身も“ありのままの姿”を出していきたいという意向だそうです。しかし、所属事務所は老舗の演歌系ですから、カミングアウトだけは阻止したいと考えているのです」(スポーツ誌記者)

限界突破の氷川きよしを直撃!「恋愛はいっぱいしたい。紅白でドレスもやりたいけど…」

報知新聞によれば和田アキ子もテレビで「本人がはっきり言ってくれれば」と語ったそうである。明らかに周りは知っているのだが何かに忖度して言えない状態になっていることがわかる。大手事務所ということもあって遠慮して書かないのだろう。だがそれが却って「同性愛は後ろ暗いもの」という印象を強化している。

こうした印象付けには実害がある。過去一橋大学で「他人から同性愛傾向をバラされた」ことを苦にして自殺者が出たというニュースがあった。アウティングというそうだ。恥ずかしいと思うから隠しておかなければという気になるのだ。

興行的には成功しており周囲からは受け入れられているとみていいだろうし、周りもおそらくは知っている。だから氷川さんがそれについて言及してもさほど問題にならないだろう。ファンも氷川さんを応援しておりいちいちとやかくは言わないはずだ。だからここに「氷川さんはそれを堂々と公表すべき」という問題を作りたくなってしまう。恥ずかしくないなら堂々と公表すればいいのではないかということだ。

日本には「隠すか」「公表するか」という二つの大変狭い解決策しかないことがわかる。実はこれが問題なのである。

セクシャリティというのは本人のアイデンティティの根幹であると考えられている。確かにそれはそうなのだが、普段個人の意見を全く尊重しない日本人が他人のセクシャリティだけは大変な問題だと考えてしまうのはなんとなく不思議な気もする。おそらくは特別な人を例外として棚上げして自分たちの常識を守りたいという意識が働くのだろう。なのでカミングアウトはその人が受け入れられることにはつながらない。単に「その他」の箱に入れられてしまうのである。

ネットで同じようなハリー・スタイルズのインタビューを見かけた。氷川さんと同じように中性的な衣装を着て公の場に姿を表すことがあるそうだ。だが、ハリー・スタイルズは「セクシャリティ」をどうでもいいことと言っている。セレブが自分のアイデンティティについて語らないのは不自然なように思えるのだが、実はそれは標準的な(つまり男性らしい・女性らしい)セット以外のセクシャリティを「ものめずらしいものだ」と他人も当事者も信じ込んでしまっているからにすぎないことがわかる。

よく考えてみれば、当事者にとってはそれは生まれつきの極めて当然のものであって特に珍しいというものではない。あるいは「よくわからない」とか「決められない」という人もいるかもしれない。

氷川きよしにとっては彼が興行的に成功するのかということだけが重要なのであって、それ以外のことは実は「どうでもいい」ことなのだ。言いたければ言えばいいし言いたくなければ言わなくてもいい。単に表現として好きなだけかもしれないし、あるいは性的自認と関係しているかもしれない。さらに明確に決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない。それらが彼自身の問題であって説明する責任も義務もない。

氷川きよしのニュースだけを見ると日本の特殊な状況だけしかわからないので何かとても真剣に論評したくなってしまう。そこからは別の可能性は見えてこない。ところが全く別の事例をぶつけると「別に表現しても言わないという選択肢もあるんだな」ということがわかってくる。

今回は自己表現と自分らしさについての事例だったのだが、おそらくは政治や経済にしてもそれは同じなのではないかと思う。問題だけを見つめると解決策が見えなくなってしまうことがあるのだ。