議論と対話実践編 – 意見を募集してみる

Quoraでスペースと呼ばれるコミュニティ運営をやっている。自分の意見を言いつつ投稿にも目を通して場所を作って行くという作業である。漫然とやっていたのだが、定期的にまとめたいと思う。今回はその第一回目である。今回は「参加を促す」ことの是非について考える。色々考えているとかなり本質的な問題にぶち当たる。

スペースがある程度成功してくると「公共空間を牛耳っている」というような印象を持たれることがある。特に非表示とメンバーのキックアウトというモデレータ権限を誰にも付与していないので「独裁者」だという批判が来るのだ。まずは「これを防ぐためにどうしたらいいか」と考えた。




最初にやったことは意見をオープンに募集するということだった。つまりメンバーシップをみんなに付与するのだ。これはなかなか良さそうな作戦なのだがすぐに限界にぶち当たった。宣伝目的で自分の主張だけを言い立てる人が出てくるのである。どうやら他のスペースでも問題になっているらしい。「荒らし」というのは要するに場の空気を読まずに自己主張だけして帰る人や参加者を罵倒して場の空気を乱す人たちである。実名なのだがこういう人は多い。

実際に議論が作られる過程を観察すると次のようになる。

  • ある人が何か投稿する
  • 誰かがそれに呼応して別の投稿をする
  • それにコメントがつく

こうやって流れが作られるのだが、こうした流れを作る人はほぼいない。カラオケルームになっている。要するに誰かが歌っている間には歌を聞かずに歌本(最近はリモコン)で次の曲を探しているのだ。集団主義のはずの日本人なのだがなぜか自主的な対話は苦手である。

考えてみれば不思議な現象である。日本人は誰よりも他人の目を気にするはずだからである。だが、何かの壁を突破してしまうと「自分の意見を一方的に」述べ始めるのだ。中には論破してみろなどと言い出す人もいる。

議論には協業のための議論と競争のための議論がある。日本人が最初に魅了されるのは競争のための議論だ。つまり日本人は自分の歌だけを歌うか競争して勝ちたがるのである。

試しにこちらから「ご意見を募集」してみることにした。当然意見を言ってくる人はいない。日本人は自分の縄張りとそうでないところをかなり明確に分けていて「自分の縄張りでないところ」にコントリビュートすることはない。アメリカ式の「みんなで作る公共」は成り立たない。聴衆はいるので「高評価」は付くのだが歌いたい人は他人の歌は聞かない。

やみくもに批判してくる人は裏返しとして「悪し様に人を罵ってもいい」と考えているので、自分から批判されるようなことはいわないものなのだ。つまり、こういう人たちは最初から自分たちの意見をいう環境のハードルを上げている。

少なくとも「独裁者批判」は断定的に何かを言うからだということがわかった。「わからないので教えて欲しい」というと断定している感じが薄まる。さらに「お願いされているのに意見が言えていない」ということにもなる。すると不思議と一方的に意見をいう人が減るのである。

日本人が議論ができないことにはいろいろな理由があると思うのだが、ここからも日本人が議論ができない理由の一端が垣間見える。日本人は「他人が提供したフレームワーク」が理解できないし理解するつもりがない。

最初の「一方的にがなりたてる」段階では、おそらくフレームワークも提示せず(おそらく内部には何らかのものがある)いきなり結論をぶつけてしまう。フレームワークを提示すると今度は黙ってしまうのである。枠を提示しないと「自分のルールを全体のルールにしろ」と言ってくる人が現れる。他人の枠は破るか盲目的に従うのかの二択というのが日本人である。

では「枠」は全部嫌われるのかと言われるとそうでもない。

今回「独裁者」として「引用元が明らかでないものは削除する」という俺ルールを作った。こういう「枠」は理解されやすいようだ。外形的な様式さえ守っていれば「あとは自分の心象に任せて好き勝手にしていい」という状態は理解してもらえるらしい。これもよくある。日本人は形式は理解できるのである。

実際の対話はコメント欄で行われることが多い。ここでは「相手に合わせて話をすることができる」からである。コメント欄だと相手の論理構成がわかるので、それに合わせて一対一で会話すればコミュニケーションが成り立つ。そして、この一対一の会話をやらないとコミュニティに人が定着しない。対話をやりたがっている人はいるらしいのだが、その場の流れを感じ取って大勢の会話に乗るのは苦手な人が多いようだ。この例外になっているのが在外経験のある女性である。

つまり、日本人はあくまでも個人として自由に振る舞いたいのだが新しい環境に入ると「どうしていいかわからなない」という気持ちを持っているのだということがわかった。そしてそれはおそらく能力ではなく経験の有無によるものだ。在外経験がある人は外国の学校教育や企業文化を通じて「流れに乗る」技術を身につけるのだろう。

そうなると、集団として参加する(意見表明しない)・個人として好き勝手に振舞う・個人として場を乱して支配欲を満たすというだいたい3つの選択肢しかない。

このツールボックスだけだと「行き詰った現状を打開して新しい集団を作る」ことは絶対にできないだろう。これを打破すべきなのかうまく利用した上で付き合って行くべきなのかというのが次の課題なのかもしれない。