日本人はプロセスを気にするのか気にしないのか

先日来、西洋のメディアはプロセスを気にするが日本のメディアは気にしないという話をしている。だが、ちょっとそれが崩れそうな事例を見つけた。文書管理のようなプロセスを気にして安倍政権を批判している人が多いのだ。実は日本人はプロセスを気にするのかも知れないなと思った。

カルロス・ゴーン被告の報道を見ていて、日本メディアが「検察に検挙されたカルロス・ゴーンは悪い」という前提を持ち、そこから情報を取捨選択しているということに気がついた。そこでこの持論をぶつけてみたのだが「マスコミは結論ありきだ」という話をしてみても反対する人はいない。フランスのメディアはなぜカルロスゴーンが逃げ出したのかという説明を求めている。彼らは結論を導き出すためにhowとwhyを気にするが、日本人は結論が決まっているので途中経過はさほど気にしないという仮説を作った。




この知見はいったい何の役に立つのか。最近、「日本人は公正公平な記事を好む」というフレーズが気になっている。Quoraで時々政治系の記事を書いているのだが、wikipediaや新聞の記事をまとめてできるだけ主観を交えない記事が好まれる傾向があることがわかってきた。

こうし無味無臭の記事は高評価を得られるが、そこに着くコメントは大抵「持論」である。つまり中身を読まないで気に入ったところだけをつまみ食いしているのだ。大抵の人は「わかった」とか「自分と同意見だ」と言ってくれるのだが中身を読んでみるとどう考えても理解してくれているようには思えない。おそらく日本人は他人の書いたものを読んで意見を変えることはほぼないのだろう。つまり、結論は最初から決まっているので途中経過などどうでもいいのだ。どうでもいいのだがプロセスは知りたがる。知った上で無視するのである。

一方で、他人の意見には強い拒絶反応が出る。無味無臭の記事の最後に意見を加えるのはよいのだがタイトルで結論を書くのは良くない。順番を変えただけでレスポンスに大きな差が出る。

前回このブログで「安倍政権が終わる」という記事を書いた。実際には自民党の内外にそういう声が出ているということを書いたのだが、安倍政権批判=左翼と思われたのだろう。「リベラルの人はなぜ国が悪いというような話しかしないのか」というコメントがついた。Quoraなら消さないと思うのだがここは自分のブログなので速攻で削除した。

この人は結論としての「安倍おろし」という内容だけを見て、途中経過を読まずにコメントを書いたのだと思う。その内容も取り立てて面白いところはない。リベラルは文句ばかり言うというある種スタンプのような批判である。つまり、日本人はタイトルという結論が大切なのであってその途中経過を気にしない。ある種「正解」があってその正解を言いたがるのだ。おそらく何がリベラル(左翼なのか)を聞いても答えは出ないだろう。それは単なる蔑称なのである。

このように日本人のプロセスの扱い方はどこか奇妙だ。同じようにTwitterを見ていると日本の政治論評はプロセスについて文句を言っている人が多い。例えば「文書管理がずさんで嘘をついている」という批判をよく見かける。確かに安倍政権は文書を隠したりしているが、過程を気にしないはずの日本人がなぜ文書管理という過程を気にするのかというのは説明ができない。

これを今までの論と整合させるためには、リベラルのプロセスや原理原則批判は「安倍政権批判という結論を導き出すための道具に過ぎない」という仮説を持ち込まなければならない。つまり結論ありきなのである。

日本人は無味無臭のプロセスは我田引水のために使い、箸の上げ下ろしは相手を貶すために使う。心象を正当化するための材料にしているのだろう。この心象は個人的なものだが、日本人は「みんながそう考えている」と思いたがる。孤立を自覚していないだけで実は孤立しているので絶えず正当化する材料が必要なのかもしれない。

ここからわかる結論は「印象は俺が決める」という極めて強固なエゴセントリックさである。情報というのは「俺に決めさせるための事実だけを淡々と運んでくればいい」と考えている人が増えているということになる。そして気に入らない人が何かをやるとその途中経過がいちいち批判の対象になる。姑が嫁の一挙手一投足が気に入らないのと同じことである。

ただ、日本人は極めてエゴセントリックでありながら、その意見を自分の意見を自分の意見としては語りたがらない。あくまでも正解の側によっている「みんなと一緒」という態度をとりたがる。つまり極めて偏っていて公正になるつもりはないのに、見え方としては公正さを装うのだ。日本人は中立・公平に見せたがりそれを承認してもらいたがる。

では公正・中立とは何なのか。おそらくそこにも社会的合意はない。

このところ「中立で公正な報道は何か」というようなことを考えてきたのだが、例えばドイツと日本では態度に大きな違いが見られる。最近よく引用する早稲田大学教授近藤孝弘教授の論によるとこんな感じになる。

  • ドイツ人は全員が違った意見を持っていると考え、それを公平に扱うことを「公平」と言っている。
  • 日本人は他人の言っていることは受け入れないが、自分は中位でマジョリティにいると思われたい。これを「公平」と言っている。

この文章では散漫に日本人とプロセスの扱いについて考えてきた。結論としてはドイツのように公正原則を共有しなければ「みんな孤立する」ということになる。ヨーロッパのような個人主義社会はなんらかの合意を結ぶ努力がなければいとも簡単にバラバラになってしまうのだが、緩やかな集団主義が崩壊しつつある日本人にはまだその自覚がないのだろう。

言い換えれば一旦自分の心象を脇に置いてプロセスの評価をすればその孤立は簡単に解消するだろうということになる。わざわざ共通認識を作る必要はない。実は問題の解決と議論は日本でもそれほど難しくないのかもしれない。

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