大麻合法化に関する別の視点

日大ラグビー部の部員が大麻所持の疑いで逮捕された。これについて大麻での逮捕履歴がある女優が「もう一度考えませんか」と訴えかけ問題になっている。この話題だけを見ても「我々が大麻に関してどういう態度をとるべきか」ということが見えてこない。ここから視野を広げることでこの議論に何が欠けているのかが見えてくるのではないかと感じた。つまり我々は何を目的にして議論をしているのかということを考えたいと思ったのだ。




大麻の規制の目的は国民の健康や安全を守るためにあると思いたい。連日大麻関連のニュースは出ているのだが、だいたいは誰かが逮捕されたというようなニュースである。

大麻関連のニュース

これだけ熱心に悪を叩いているのだから日本は平和になりそうなものだが、実はもっと危険な「合法ドラッグ」が安く出回っているという。例えば咳止め液だったり、ストロング系チューハイといった意外なものが「合法ドラッグ」として扱われている。

大麻は麻薬でチューハイは生活に欠かせないお酒だから全く違うのではないかと思う人がいるかもしれない。だが、実は大麻もかつては生活必需品だった。戦後GHQがアメリカのスタンダードを持ち込んだに過ぎない。そのアメリカでは大麻も段階的に認められ始め、さらに日本では危険薬物扱いの痛み止めも広く使われている。国によって何を危険とするかという線引きは実は曖昧だ。

ストロングチューハイはスーパーで安く売られているが、かなり危険性が高い飲み物らしい。

結局あれは「お酒」というよりも、単に人工甘味料を加えたエチルアルコール=薬物なのです。

ストロング系チューハイに薬物依存研究の第一人者がもの申す 「違法薬物でもこんなに乱れることはありません」

エチルアルコールはお酒の主成分らしいのでこれだけを見ると「いいがかり」のようにも聞こえる。Quoraでも話題になっていたが戸惑った回答が多かった。

この記事は、人気のビールからたくさんの税金を得たいために実際にはもっと危険な「お酒」が野放しになっていると指摘している。アルコール度数が高く口当たりもいい人工的なお酒はいくらでも作ることができる。いくらでも飲めるのだから早く酩酊状態になりそれが一部の人にとっては危険だというのである。

しかし野放しになっている危険はそれだけではない。最近ブロンの瓶がいくつか道端に落ちているのを二回だけ見たことがある。ブロンが問題になっているという記事を読んだのはそのあとだった。最初は何人かがブロンパーティーをやっているのかなと思ったのだがこの記事を読む限りはおそらく一人で何瓶もの薬を飲んでいることがわかる。ブロンの被害者は見たことがないが、おそらくこれは今隣にある危機である。

これらのことから、大麻のような薬物が危険視される一方お酒や咳止め薬といったものが放置されているという実態があるのがわかる。アメリカでは科学的な研究や議論があり何が危険なのかというスタンダードは変わってゆくのだが、日本人は結果だけを重要視するのでそれが変わらない。

議論の目的は社会から違法な薬物への依存を減らすということのはずなのだが、この一連のニュースを見るとその目的は忘れられていることがわかる。議論の目的が忘れられやすいということは大麻の可否を判断する以前に我々が考えるべきことなのではないだろうか。

背景には「一人ひとりの依存につながる問題なんかいちいち見ていられない」という気持ちがあるのだろう。薬物依存の問題は一人ひとりに違ったバックグラウンドがあるはずで統計的に捉えることはできない。おそらくは精神科の医者やカウンセラーなどが親身になる必要があるが皆忙しくて流れ作業的なことしかやってこなかったのだろう。実態の把握が困難なのは我々の社会が忙しすぎるからであって技術的な問題ではない。

実際の問題が放置される中「社会で悪いといわれているものはとにかく悪いと言って叩いてしまおう」という気持ちも強い。テレビでは立川志らくさんが「いろいろごちゃごちゃ言っている人はいるがゲートウェイドラッグと言われているんだから」という理由で「どうしてもやりたいのならよその国に行けばいい」と言っていた。おそらく立川志らくさんは大衆を代表している(つもりな)のだろうが、思考停止的な態度を振りまいているという意味では害のある行為だ。

つまり社会問題に関する視点というのは多くの場合「他人を叩きたい」という欲求であって「問題を解決したい」という欲求ではない。だから、おそらく大麻の問題についてこの問題だけを取り出してあれこれ言うのは得策ではないだろう。強者の側から弱者を叩きたいという人が大勢いて問題を提起する人に覆いかぶさるからである。

大麻やそれ以外の危険薬物の問題をどうとらえるのかは人によって違うのだろう。様々な意見があっていいと思う。だが、我々はなぜこんなにも多くの人が良識を笠に着て他人に襲いかかりたいのかということを考える必要がある。それは問題の解決を難しくするばかりか社会を息苦しくする。つまり我々は問題を解決するために議論をしているのではなく新しい問題を作り出しているのである。

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