「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論

大河ドラマ「麒麟がくる」に鉄砲の戦争抑止効果論が出てくる。松永久秀(吉田鋼太郎)が明智光秀(長谷川博己)に対して「銃の恐ろしさを知った人は銃を持っている相手に戦争を仕掛けなくなる」というのである。「麒麟がくる」は明智光秀の前半生がほどんど知られていないのをいいことに好き勝手な創作をしているのだが、議論としては面白いなと思った。このエントリーでは火縄銃が当時の軍事情勢にどのような役割を果たしたのかを考える。松永弾正の予言は当たったのだろうか?ということである。




ドラマの中では本能寺から近江国友に鉄砲技術を伝えたとされる人物に軍拡論を語らせている。つまり「一方に鉄砲を作ったら別の方はもっと欲しがるからキリがない」というわけである。軍拡論と抑止効果論が対立するような書き方になっている。

これについてQuoraで質問をしたのだが面白い回答がついた。このエピソードは後日信長が「たくさんの銃を持っている」ことに驚く布石なのではないかというのだ。つまり、結局は物量戦に突入してゆく歴史描写として使われているということになる。Quoraには時々こういう面白いことを書く人がいる。

その回答によると種子島に鉄砲が伝わったのは1543年で最初に戦争に使われたのは1544年だそうである。そして1548年には織田信長と松永久秀が会見し「たくさんの鉄砲が準備されていることに驚いた」のだそうだ。1549年に国友に信長が500丁の鉄砲を発注したという記録も残っているそうだ。つまりほんの短い間に軍拡が始まっていたことになる。

松永は将軍家と対立していた三好家の家臣だが、この対立は外からやってきた織田信長に崩されることになる。織田家は三河・尾張/三河・美濃・駿河/遠江という東海地方で覇権争いをしていて当時の京の争いとは縁がなかった。つまり、京で軍事力均衡の調停をしている間、その外側で物量化が進んでいたことになる。

驚くほど短い間に、鉄砲のリバースエンジニアリング(分解してみて組み立て工程を考えること)とある程度の大量生産体制ができていたことになる。1573年の長篠の戦いでは1,000丁から3,000丁(記録によって異なる)の鉄砲が準備されていたそうだ。ただ三段撃ちという先日は後からの創作であった可能性が高いという。長篠の戦いはかなりの嘘が含まれているという記事もあった。

ここから見ると鉄砲は「抑止効果」ではなく「軍拡」に機能したことになる。対立の外にいて物量を揃えた人が勝ったのである。

この当時は将軍が日本を統治できておらず京では戦乱が起きていた。そのためおそらく近畿以東の中部地方にまで手が回らなかったのだろう。「麒麟がくる」では美濃(斎藤)・尾張/三河(織田)・駿河遠江(今川)が相争っていたという様子が描かれている。このほかに甲斐・信濃・武蔵でも争いがあったはずでこちらは「真田丸」で盛んに描かれていた。このころの日本はブロックに分かれていて「天下取りの予備選挙」の段階にあったと言えるのかもしれない。

まず将軍家が京都での戦いを有利に進めるために鉄砲に注目した。本能寺は種子島や堺とつながりがあり鉄砲の交易場所となっていたようだ。信長も天皇家とつながるために本能寺に通っており、ここで鉄砲について知ったのかもしれない。この辺りは後々ドラマで語られることになるだろう。将軍家はこの鉄砲の秘密を独占することはできなかった。信濃・関東・越後などの人たちは種子島や堺から遠く「鉄砲の恐ろしさ」を知る前にそれを使われてしまったことになる。天下統一には武器をめぐる情報戦という側面があったのだ。

この「麒麟がくる」に出てきた「兵器の見せしめ効果」というのは話としては面白いのだが、実際にはそのような予想通路では戦争は抑止できなかったことになる。もしそれが実現していたら将軍家は生き残れたはずだ。池端俊策さんがどのようなつもりでこのエピソードを書いたのかはわからないが、結果的には「武力による統一が兵器のやみくもな開発競争を抑止した」ことになるのかもしれない。

「ある程度の混乱」と「恐怖心」が鉄砲の普及を促したことはわかった。世の中が平定されてしまうとそれ以降は鉄砲が改良されることはなくなってしまった。「麒麟がくる」の国友のエピソードでは「飾り」が評価されて美術工芸品のような発展をしたと書かれている。日本では職人のイノベーションが財産にならない。工夫をしてもそれを買ってくれる人がいるわけでもなく、誰が褒めてくれるわけでもなく、発明を保護してもらえるわけでもないという状態である。

最終的に黒船が来た頃には日本の鉄砲は時代遅れになっていた。何らかの差があって日本ではイノベーションが遅れたようだがその差が何だったのかということはよくわからない。

そこでピストルの歴史を調べてみた。このPichori銃の歴史によるとピストルは密閉打撃式の「雷管」という装置がイノベーションになっているようだが「特許の取得」という言葉がなんども出てくる。1839年にサミュエル・コルトがリボルバーという連射式のピストルを作って現在の持ち運び式拳銃の基礎があらかた出来上がった。コルトは特許をとると会社を作って自分の拳銃を売り出したようだ。

国友村は職能集団が銃を作っていたので個人の工夫が個人の財産になることはなかった。西洋で銃が改良されたが、日本は伝統工芸扱いになり単なる飾り物になった。その違いはおそらく「資本主義」という概念が日本にはなかったからだ。資本主義というのは工夫で個人が報われるというのが本質であることがわかる。

日本では集団が外国から新しい知識を手に入れてうまく活用するだけで勝つことができた。そして、個人が発明によって報われることはなかった。これが明治維新まで日本が成長できなくなった理由なのだろうし、おそらくは今日本が成長できない理由なのだろう。

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