コミュニティ管理実践編:怒りを受け取らない

コミュニティを管理しており時々実践編を書いている。今日は「個人的に取らない」という原則について考える。課題になるのは「これを対話に結びつけることができるか」という点である。




先日、春名風花という人のTweetを題材にして質問を立てた。早速「本人と称するアカウント」から「そんなことは言っていない」という回答が入った。ただ、本人はそれ以上活動をしていない上に「そんなことは言っていない」ということだけが書いてあるので、それ以上のことはよくわからない。つまり本人かもしれないし、本人ではないかもしれない。

しばらくは「本人が降臨したらしい」と話題になったようだがそれ以上は伸びなかった。ところがここに回答がつくようになった。別のところで取り上げられたのだ。ネット的にいうと炎上したのである。

炎上という現象は面白い。まず問題提起する人が「問題視されています」と世間にそういう風評があるように主張し「本人がどのように謝罪するのかが注目されます」と言っている。つまり誰かが火をつけるのだが火をつけた人は社会がそう言っていると主張するのである。外国ではどのように遷移するかは知らないが、日本人は個人の意見を重要視しないのでこういう間接的な手続きが必要になるのだ。

ここで「主張ではなく発言者の人格」に問題の焦点を当てようとするというのも特徴だ。だが、人格の問題になって初めて観客がつく。日本人はここにライブリー(生き生きとした)感覚を見出すのだろう。具体的にいうと「本人の人格が屈辱されたのだから本人は感情的に反応するだろうしそれは面白い見ものだ」と感じる人がいるのである。焦点が議論から喧嘩に転移するという瀬戸際にある。これを見世物にするとかつてあった朝生調の見世物になる。

私はかなり以前からこのブログを書いていて「炎上」というものを恐れていた。だからページビューが伸びるより誰かを刺激しないことの方が重要だと感じていたのだ。だがQuoraではなぜか認知が上がってしまいなんとなく目立つ存在になっているようで「ああ面倒だな」という気持ちがあったのも確かだ。だが、いざ炎上に遭遇してみると「さほどのことはないのだな」と感じた。

理由は二つある。

  • 普段からできるだけ貢献もするように心がけている。これが認められるとも限らないし、自己満足である可能性もあるわけだが「ここまでして認められないなら別にそのコミュニティにこだわる必要はないな」という自己納得感がある。
  • 課題から人格へというメカニズムがわかっているので、対象方法もある程度わかる。

普段から貢献しつつメカニズムに対する理解を深めるのは重要だなと思った。

まず最初にやったのは、否定的コメントを書いた人にお礼を送り「後から来た人がこの質問の何が間違いだったのかがわかるようにしてくれてありがとう」と書いた。これは「人を動かす」という本に書かれている内容だ。古い自己啓発的なセールスマニュアルだが意外と役に立つ。

お礼を言われると人はそれ以上拳を振り上げることはできなくなる。人間には社会的承認欲求があり「美徳ある人間に見られたい」からである。おそらく重要なのは「コミュニティと他人の目を意識してもらう」という点であろう。さらに「本人は否定している」とタイトルを変更した人にもお礼を送っておいた。おそらく嫌がらせの気持ちがあったのだろうがそこに別のラベルをつけてみた。

では、身を低くして謝ればいいのだろうかと思ったのだがそうはしなかった。感情的な対応には意味があるのだろうと思ったからだ。日本人が抱える「隠れた次元」には興味がある。それを正直に出してみようと思ったのだ。つまり、人格ではなく課題に引き戻してみようと思った。

この問題が感情的になるのは「選抜される側」のルサンチマンがあるからだと思う。

アメリカ人は社会的承認を得るためにボランティアをするが別に嫌ならやらなくてもいい。さらにアメリカは自分らしくいたいと主張すると肯定的に受け止めてもらえる。例えば、太っている人は太っているということを誇っても良い社会なのだ。

だが、現在の日本の学生は点数を稼いで社会に認められる必要がある。他に選択肢がないのでこれは事実上の強制だ。さらに彼らが社会的に選択されないということはすなわち社会的脱落を意味する。それはつまり全人格の否定になってしまうのである。切実さが全く違っているのだが、比較対象の社会を知らない人はそれをどう消化していいのかわからない。

おそらく「闘争状態」に入っている人は他人がどんな分析をしようが「それは全然違っているし私の本質を分かってくれていない」と感じるだろう。散々そんな目にあってきているからである。だから感情的にならざるをえない。

我々バブル世代はこの感覚がわからない。我々には選択肢がありさらに社会的に脱落したとしてもそれが全人格の否定でなく自由意志だったという感覚を持っている。フリーターという言葉が否定的な意味を帯びる前に価値体系ができている世代だ。

この闘争は実は恐ろしい。「では本当の自分を表現してくれ」と依頼された場合、それがないということに気がついてしまうからだ。つまり、闘争し否定し続ける私というのが本質になってしまうからである。

もう一つこれが軽く済んだのには「経済的なしがらみがない」という事情があるのだろう。

SNSの炎上は実は社会炎上とは異なっている。企業や政治家の社会的炎上には経済的な依存・被依存の関係があり容易には鎮火しない。さらにここに週刊誌などの商売目当ての煽り手がいる。つまりお金が絡むと炎上はとても恐ろしい。ところが、こうしたしがらみがない炎上では、形式的なルールに則っている限り「相手の怒り」を受け止める義務は生じないのである。

最後に「これは社会的制裁を求める裁判ですよね」というラベリングはしておいた。一応「被告人として裁かれているんですよね」という自己認識は示しておかないと「反省していない」という炎上の材料になるかもしれないからだ。ただ社会制裁裁判には落とし所はない。なぜならそんな法廷はないからである。したがってこの最後の対応にはあまり意味はなかったかもしれない。

この件で一番意外だったのが「ああ、俺も嫉妬されるほどの存在になったんだ」という妙な満足感である。Quoraでは2019年トップライター(このトップライターは数十人いてそれほど珍しくはないのだが)という称号をもらい、運営しているスペースも2,000名のフォロワーを獲得した。ただ、こうした数字を見ても特に何も感じてこなかった。いわゆるアンチがつくことで変な達成感を味わってしまった。

表面的に褒められることはあっても、そこには「嫌味」や「ご挨拶」もあるんだろうなと思っていた。だが、むき出しのライバル心はその人の本性だ。人の心理とは面白いものだなと思った。

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