Quoraのある炎上騒ぎとネトウヨ考

今週はずっとQuoraでトラブルに巻き込まれて「ネトウヨとは何か」ということを考えている。あまり詳細に書くとQuoraの人に怒られそうなので興味のある人はこの投稿を見ていただきたい。私のポジションと運営側のポジションが読める。完全には折り合ってはいないのだが「これ以上後に感情的なしこりを残すつもりはない」と締めくくった。これだけ見るとQuoraと私が対立しているように見えるのだが、実際の論点はそこではない。実は今回問題になっているのはQuora「荒らし」の人たちだ。ここから日本の政治言論が清浄化・正常化できるかという問題を考えることができる。




きっかけになったのは新型コロナ情報室という新しく立ち上がったスペースだった。Quoraの社員からモデレータとして参加要請された。ついでに「オーナーをやってくれないか」と言われたのだが面倒臭いので断った。次第にモデレータが増えたので「やることもないかな」と思っていた時にある問題が起こり社員が「モデレータを外れてくれないか」と言ってきた。相手の都合によりコロコロと言い方が変わる。ちょっと面倒だなと思ったうえにどっちみち無償なので「キレて」見せることにした。それで面倒が終わるはずだった。

事の顛末はある参加者が「自分の投稿が消された」と言ってきたことだったらしい。そこで「誰が投稿を消したのか」という話になったのだがよくわからなかったようだ。Quoraの社員でもあるスペースオーナーが情報収集をした結果「私が反発されている」という結論に達したようだ。「あなたのアンチがいるようだから、あなたがモデレーションを外れれば問題はおさまる」と言ってきたのだ。あとでわかるのだが投稿を消したのは別のモデレータだった。この一連の行動は政治性を消せばクリーンで健全な言論空間が戻ってくるのかという疑問につながった。

この面倒ごとは「新型コロナ情報室」を撤退して終わりになるはずだった。だが、炎上は続いていたようで別の運営者から連絡があった。ただ途中経過がさっぱりわからないのでまた話がまたこじれてしまったのである。まず第一に新しい当事者が「政治を扱うと荒れる」と思い込んでいる理由がわからなかった。私の運営するスペースでは過激な意見は出るが「誰かが暴れ回ってプラットフォームをめちゃくちゃにする」というようなことは起きていなかったからだ。さらになぜ新型コロナの話がたった一週間そこらで炎上しそれが政治の問題になるのかという点もわからなかった。だが担当者たちの間ではそれが結びついていて「政治性のある人を追い出せば平和が戻ってくる」という確証につながっていたようだ。後日別の人から「実はその間に裏でいろいろなやりとりがあった」と聞いた。

技術的には「裏でいろいろやりとりをした結果」をいきなり事情を知らない人にぶつけるのは良くないと思った。議事の経緯は誰でも読めるところに置いておくべきだ。

ではそもそもなぜそんなことがおきたのか。そこには前史がある。Quoraは2019年の中盤頃「ヘイトの取り締まり」を行った。韓国・中国ヘイトの質問が蔓延していたのだがまずは論理的に説得しようとして硬軟の議論を試みたようだ。だが結局折り合うことはなく、Quoraは一部ユーザーのアカウントを停止するという処置に出た。

このときの議論は「自分たちにも表現の自由がありマイノリティへの意見表明の封殺はマジョリティに対するヘイトである」というTwitterではわりとよくある言説だった。議論の破壊行為が行われることがあるのだ。さらに原理的に「万人の政治主張を聞き入れようとすると議論空間が破壊されることがある」という問題が起こる。「議論空間を破壊すべきだ」というのも言論の自由の一つと言えなくはない。この問題については次のエントリーで取り上げたい。

アメリカではこういう議論が起きないんだろうなと思った。Quoraの運営はベイエリアで一括して行われている。おそらくアメリカで人種差別と共存している彼らには「マジョリティへのヘイト」など理解不能なコンセプトに違いない。そして、アメリカでは割と論理的にこの問題を解決している。ここで最初の疑問が生まれた。なぜ、論理的な説得は日本人ヘイター(ネトウヨ)に通じないのだろうという疑問である。

こうして、鎮圧したはずのヘイト発言だったのだが処分に納得しない人が集まり別の集団を形成し始めた。いわばレジスタンスである。現在「南京大虐殺はなかった」という歴史検証や「ファクトベースで政治を語ろう」というようなスペースができている。そして、アカウントを消された人がそれを外から応援するという形が出来上がっている。亡命政府とレジスタンスという反政府組織のようなものができているのだが「民主的な言論空間」はそれを排除できない。反体制の意見も多様性の一つだからだ。だが、最初の疑問は解決した。政治性を消そうとしても民主的な体制ではそれを完全に消し去ることはできないのである。

あとでわかってきたのはこの中に「プロ」がいるということだ。つい最近まで日本のメディアに勤めていて記事も書いているそうだ。そして驚くべきことに実名でWikipediaにも記録が残っているという業界では有名な方のようだ。

もともと企業系の炎上マーケティングがありそれが社会問題に持ち込まれたのだと思う。匿名だったのだが謝罪に追い込まれ投稿を削除したという歴史が燦然とWikipediaに刻まれている。おそらく日本の政治言論の難しさは不景気の中でマーケティング手法として開発されそれが政治言論に持ち込まれたということなのだろうと思った。貧困がホンジュラスで反政府組織を生みそれがしぶとく生き続けているというのと同じ環境だ。

市場が高齢化し慢性的に新商品が売れない中、相手を攻撃して評判を落としたり議論に持ち込んで事実飽和状態を作り新鮮味を封じるというやり方にはある程度手法化しているのだろう。そしてその培地になったのはおそらく不景気と「ご飯論法」を生み出した安倍政権の精神的土壌である。

アメリカの西海岸では多様性と人権を守るというのは当たり前のことであり合理的に説得すれば「きっとわかってもらえるだろう」という気持ちが働いているのだろう。さらに過激な反政府言論を権力で封じてはいけないという民主的思想もある。アメリカの内陸部はトランプイズムに侵食されているが西海岸にはまだバラク・オバマ的な空気があるに違いない。これは、おそらく日本人のリベラルな人が安倍政権ができた当初に持っていたような気持ちである。日本のリベラルはこの7年間「まともなことが伝わらない」というフラストレーションを抱えてきた。日本のリベラルは安倍政権の毒に犯され一部は「闇落ち」してしまった。

Quoraの運営の人にもいろいろ言ってみたのだが日本の精神的風土についてはおそらくよくわかってもらえていないと思う。Twitterを見ても分かる通りそれくらい日本の政治言論の空間は荒れている。外からの人が驚いて「日本では政治課題は扱ってはいけない」と感じて「政治性の排除」に走ってもそれは無理もないことなのかもしれない。

全容がつかめないまでもなんとなくここまではわかった。だが、ここにまた別の疑問が出てきた。ネトウヨの人たちはいったい何を目的にしてこんなことをしているのかという問題である。つまり、彼らは本当に政治性を持っているが故に反政府運動を展開しているんだろうかということだ。「戦地帰りの傭兵」の例えからおそらく目的はないんだろうなと思っているときに書いたのが山尾しおり議員と小西ひろゆき議員の話だ。ここで問題は「政治性ではないんだろうな」と思った。

自民党はこれまでネトウヨ系言論で民主党支持者をイライラさせてきた。つまり政府が反社会的に変質した例といえる。安倍政権のご飯論法は反社会的な言論だといえる。だが、今回は立場が変わった。安倍政権は初めて「自分たちで危機に対処する」ことを迫られていてそのためには野党の協力が必要なのだ。

今までの自民党は議論を無効化する側だった。証拠を隠し理屈にならない理屈を並べ立てていた。それは彼らが自分たちで利権を抱え込み「みんなに渡さない」ための反社会的な私物化行為である。つまりそれは協力しないという意思表示である。だが、今回自民党は「みんなで協力して新型コロナウイルスと戦わなければならない」ということに気がついた。すると今度は同じ手法を野党の一部の人たちに使われてしまったのだ。野党の反対運動が闇落ちと言えるのは実はそれが安倍政権がやってきた反社会的言動のコピーだからである。

ここから「現状維持で理屈をこね続けるのは協力を拒否するためである」という回答が得られる。つまり、ネトウヨの目的は協力しないことなのだ。協力をしないことで全体としての利益を増やすことはできないが今持っている既得権を守ることはできる。既得権とは与党の場合は予算のおこぼれだし野党の側は「抵抗したい人たちの一体感」と「彼らのなけなしのお金」だ。つまり、成長なきゼロサム環境下でネトウヨ的マインドは活性化するのである。

この話の恐ろしいところはネトウヨと戦っている人もネトウヨに感染してしまうという点だ。希望を食い物にして相手をネトウヨにしてしまうのがネトウヨの恐怖なのである。

成長が前提になっているQuoraの人にはおそらく理解できないだろう。Quoraは質問者と回答者が協力することで社会に新しいナレッジプラットフォームを造るという理想を持った会社である。言論が荒れ果てた日本人にとっては社会協力など「ご立派なキレイゴト」にしか過ぎない。宣教師が「未開の地日本」に入り丸腰で説得しようとしてなぶり殺しにされるというのと同じことなのかもしれない。

日本では自己責任論が蔓延し、与党も野党も豊富に「協力しないための理由」を持っている。日本には協力して社会を良くしようという理想論を捉える余裕がない。だが協力のない社会はやがて過去の蓄積を消尽し衰退することになるだろうし、今回のような災害危機には対応できない。だから荒れ果てているとはいえやっぱり協力のプラットフォームは必要だ。

ということで、今週一週間はとても疲れる一週間だったのだが、最後に残ったのは次の疑問である。

ネトウヨ的マインドが消しきれない中で、我々はどうやって協力的な言論空間を維持できるのかというものだ。次回はウイルスをたとえに用いてこの問題を考えたい。

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