植松聖 – 潜在的優生思想の国のありふれた異常性

どういうわけかTBSの報道特集を久しぶりに見た。最初はコロナの話をしていたのだが、たまたま植松聖被告の話が出てきた。第一審が結審して死刑判決が確定しそうだという。だが、この報道特集は面白い切り方をしているなあと思った。植松聖被告の異常性に触れなかったのである。そしておそらくそれは彼を異常者として扱うより難易度が高いことなのだろうと思った。




まず、金森キャスターが植松さんと接見し「普通の若者だ」と証言する。そして木村英子参議院議員にインタビューに接続する。木村さんは施設でいじめを経験しているそうだが、その経験から「ああいう人はたくさんいる」と証言していた。「弱者」のお世話をするうちに優越感に浸る人も出てくるのだろうし、自分がなぜこんなことをして生計を立てなければならないのかと思う人もいるのかもしれない。

唯一植松さんが他の人と違っているのは「実際に手を下したこと」なのだが、おそらく同じようなことを考えている人は多いのではないかと木村さんは言う。当事者の言葉には重みがある。

植松被告は教師になる夢が挫折した後人生の目的を見失ったようだ。タガが外れたようになり刺青を入れ大麻を吸ったりするようになった。ここから彼の異常性を見つけるのは実は簡単なことだ。運送会社に入るが仕事は続かず障害者施設で働き始める。ある入所者のお葬式で悲しまなかった入所者たちを見たことで「この人たちは生きていてはいけないのではないか」と思い始めたそうである。実際にその考えを周囲に伝え仕事をクビになった。

これが異常なのか、よくあることなのかというのが問題になる。

東洋経済に青沼陽一郎さんという人の文章が載っている。かつての裁判と違い裁判員裁判では裁判が簡略化されてしまうので生育歴からくる異常性などが浮き彫りにならなかったと分析している。かつての裁判の仕方を「精密司法」というそうだが日本の司法は緻密でなくなりつつあるという主張である。

確かに植松さんは大島理森衆議院議長に犯行を予告する手紙を書いている。そして当時抱いていた気持ちは今も変わっていないようだ。総理大臣にも手紙を書こうとしていたそうで「これは異常なのではないか」と思えてくる。

青沼さんが挙げている傾向には次のようなものがある。

  1. 恵まれない境遇に対する不満、こんなはずではなかった、という欲求不満が蓄積する
  2. 自分は悪くない、正しい、周りが間違っている、という“他責的傾向”が強い
  3. 孤立
  4. 自己顕示欲が強い
  5. 犯行を肯定する独善的な論理や大義が加わる

青沼さんは「障害者施設で働く人は恵まれていない」と感じているのかもしれないが、成長する産業がなくなった日本で介護や福祉の世界に仕事を求めざるをえない人はたくさんいる。高齢化する日本は全体が「介護施設」状態になっている。バブル期に社会に出た人たちと違って将来に閉塞感を抱える人は多いだろう。

では残りの資質はどうか。

最近、Quoraで日本の政治議論を見ている。実は自分が持っている正義感から他人を裁きたがるような人は全く珍しくない。前回、Quoraのネトウヨについて書いたがそんな人はいくらでもいるのである。

日本人は表立って政治議論はしないが、SNSのような切断された空間ではものすごくおしゃべりになり自分の主張を押し付ける人が多い。特に若い人だけがそうというわけでもなく中高年でも高齢者にも大勢いる。中には立派なお仕事をしている人もいるし、おそらくそうでない人もいるだろう。

ある組織に所属したりしていると他人の目を意識しておとなしくなる。だが、そのしがらみから解き放たれた日本人の発言は暴れ馬のように自由だ。特に自分より弱いものと感じる外国人や女性に対する発言には容赦がない。自由が「孤独」のもう一つの呼び方である。

解き放たれた例としてあげられるのが杉田水脈議員や長谷川豊元維新議員候補のような人たちである。彼らは自ら考えた結果「生産性のない人は生きている資格がない」と考えるようになった。しかし長谷川豊さんの生育歴を気にする人はいない。

植松被告は、「心失者」は社会にとって大きな負担であり不幸の源であるから、抹殺してよいと主張する。
一方、杉田議員は、『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題した文章のなかで、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と主張し、このままでは「社会の秩序が崩壊する」と述べる。
また、少し前には元アナウンサーの長谷川豊氏(現「日本維新の会」支部長)は、「自業自得の透析患者を殺せ」という主張をして、大きな問題となった。

差別とは何か?「社会の役に立たない人間は無価値」と信じる人たちへ

すると植松さんは「どこにでも普通にいる人がたまたま自分の考えを実行する機会に恵まれただけ」ということになってしまう。杉田さんや長谷川さんは目の前に「手にかけられる人」がいなかったというだけの違いかもしれないのである。おそらく杉田さんや長谷川さんは社会に訴える場所を持っていたから過激な発言になった。だが発言する場所はなく代わりに手にかけられる人がいたからあんなことになったと考えることもできるのである。

青沼さんの分析ではなくおそらく報道特集の方が正しい見立てなんだろうなあと思う。つまり植松さんをいくら分析したとしても異常性は出てこないだろう。実は生産性議論というのはそれほど日本に浸透した考え方になっている。

杉田さんや長谷川さんもまた「選挙で選ばれなければ価値がない」という存在だが、よく考えてみれば我々は常になんらかのコンテストにさらされている。

我々の社会はずいぶん長いこと「役に立つものと役に立たないもの」を選別し続けてきたのだろう。選別されて切られるという経験をしてきた人が他人を切って当然という発想になるのは実は当たり前のことなのかもしれない。

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