危機の時代のリーダーはどうあるべきか – 安倍晋三と森田健作を反面教師として

火曜日に緊急事態宣言が出てから初めての週末が明けた。テレビでは「首都圏の人手があまり減らなかった」と言っている。かなり焦っているようだ。北大の西浦教授は「7割削減では長期化する」と警鐘を鳴らした。尾身茂副座長はこの提言に基づいて試算を出す予定にしているという。だがリーダーシップ不在の日本はおそらくこのまま長期停滞路線をたどるだろう。日本人は意外と大胆だなあと思う。自分たちの命をルーレットの上において一か八かの賭けをしているのである。




前回はこのブログのテーマである日本人観察的な視点で傍観者的に眺めてきた。目標ができると日本人はどうしたら実行できるかを考えずにまずネゴシエーションを始めてしまうのだなあといういわば諦めに似た視点である。今回はまず科学者に向けて交渉し、それができないと知るとソーシャルプレッシャーをかけ始めた。ターゲットになっているのは虚業とされる夜の歓楽街とエンターティンメントである。彼らに無理を押し付けてしまえば「普通の人たち」は行動を変えなくて済むと考えるのが日本時である。

だが数字は残酷だ。このままでは日本は長期停滞路線に入ってゆくだろう。リーダーシップ不在のためにコロナとの共存を強いられるのである。

では、別のロールモデルはないのか。

一つ目のロールモデルは「当事者」となったボリス・ジョンソン首相である。ギリギリで踏みとどまっている医療関係者を個人名を挙げつつ賞賛した上で国民に協力を訴えた。あまりにも出来過ぎた生還劇なのでもしかしてコロナに感染したフリをしているのではないかとすら疑ってしまう。ニュージーランドの首相もアプローチは違うが国民に協力を訴えたのだという。コミュニケーションモデルとして賞賛されている。

危機に際して重要なのはまず当事者として共感を示しその立場から協力を訴えることが大切だということがわかる。これがわかるとなぜ安倍首相の例の動画が激しい批判にさらされたのかがわかるだろう。安倍首相は周囲の状況を理解しようとしていない。共感力の欠如が動画を見るだけで直感的にわかってしまう。そればかりか自分の人気を維持するために利用しようとした。これら一連の企みの一つひとつが我々をとてつもない不安に陥れるのである。共感力という論理的には説明できないものが直接社会にさらされるSNSの恐ろしさを感じるできごとだった。

では、なぜ日本にはこうした共感力のないリーダーばかり生まれるのか。それはおそらく我々が失敗を嫌うからだろうと思う。わかりやすいサンプルとして千葉県知事を挙げてみたい。

千葉県知事の鈴木栄治知事は森田健作という俳優名で知られている。つまり最初から虚像が県知事になっているという存在である。あまり具体的な政策提言がなくどちらかというと見栄えが良いからという理由で政治家を続けている感じの人である。あまり問題のない千葉県ではそれでもよかったのである。

森田県知事が県知事になったのは「何となく見栄えがいいがこれといった成果がない」からである。何もしないということは何も失敗しないということなのだ。これが組織を率いた経験も法律をまとめた経験もない安倍首相とよく似ている。

安倍首相は小泉政権下で北朝鮮問題でスターに仕立てられそのまま官房長官などの要職を歴任した「作られた政治的スター」である。日本人は失敗しないスターが好きなのだ。好きなようにリーダー像を投影できるからである。おそらくそれは何となく形はいいが噴火したりしない富士山に似ている。富士山も遠くから眺めているのが良い山である。

課題が明快だった千葉市は別のリーダーを選んだ。千葉市長はもともと千葉市議会の議員だったが前市長の汚職問題を契機に立候補し国政の民主党ブームにも乗って当選した。財政の立て直しという具体的な危機があったことで実績を積み重ねてくることができた。今回のコロナ対策にも積極的に提言を行っている。千葉市はさいたま市のようにPCR検査も絞らずにできるだけ誠実に実施しているようである。

普段は振り付け通りに富士山のように振舞ってきた森田健作知事に危機対応は難しい。台風被害の時にも自分の家を見に行って非難されていた。おそらく日本の「決められない政治家」というのは周りの期待通りに動くことを期待されている操り人形のような人たちなのだろう。操り人形だからこそ立派に見えるのだが振り付けを外れて動いてはいけない。

一方、千葉市長は前例通りにやっていてはダメだという意識中で生まれた政治家であり、行動制約が少なかった。この点では北海道の鈴木直道北海道知事とも共通している。鈴木知事は東京都の職員を経て夕張市長になり前例がない中で市政を取り仕切ったのちに道知事になった。若い時に危機対応を経験した人は「今何をやるべきなのか」がわかる。

森田健作知事は国の言う通りに緊急事態宣言を受け入れた。しかし自分では何もするつもりはなかったようで企業への営業自粛要請はしないと言っていた。千葉市長からかなりきつめの働きかけがあり自粛要請はしたが「基準は国が定めた通りでいい」と言っている。受け身でしか動いたことがないのだから「自主的に行動しろ」などと言ってもそれは無理な話である。

日本人が大胆で共感力のある政治家を望むなら政治家の失敗を許容すべきなのかもしれない。鈴木知事や熊谷市長は例外的な存在であり、その陰には敗者復活がないまま潰れてしまった人たちが多いのではないだろうか。

今回のコロナ禍はどれくらいの時間で通り過ぎるのかはわからない。できるだけ持ち出しを少なくして、切り捨てられるところ(夜の繁華街・閉ざされた病院・エンターティンメント産業)などを切り捨てて行き、いつ来るかもわからないV時回復を夢見ながら自分のリソースを温存してゆくというのが日本人の戦い方だ。だが何も決めないままでは体力がじわじわと削られて行き犠牲は拡大するだろう。

外敵が少なく変化に乏しい環境では何もしないゆえに失敗しないリーダーが育まれてゆく。おそらく我々は何も決断せず共感力もないリーダーのもとで長期的停滞を覚悟すべきなのかもしれない。バブル景気が弾けた時も「いつかは回復するからそれまでは自分たちだけでも生き残ろう」としてきた。その結果生まれたのが失われた数十年である。今また同じようなことが始まろうとしているのである。

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2 Replies to “危機の時代のリーダーはどうあるべきか – 安倍晋三と森田健作を反面教師として”

  1. あなたの数年前の記事も読んだが、結局、その時のネタに乗っかって安倍や自民に文句を言うだけではないのか。左派野党、特に立憲民主党に対しては常に見方も甘いようだし。

    いくらあなたや、あなたの仲間たちの界隈が安倍を嫌っても、大半の日本人は安倍を選挙で支持して今の政権が成り立っている。もう、昔のように一部の人間が情報の取得や発信を独占できる時代ではないのを自覚していますか?

    いま一度、見解が外れている数年前からの記事を自分で読み直して、反省したほうが良いのでは?

    他人に辛辣なら自分にも厳しくしないと。

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