蓮舫参議院議員の「高卒になってしまう」発言

蓮舫参議院議員が「このままでは高卒になってしまう」という発言をし物議を醸した。言い方がダメだったとのちに謝罪したのだが、何がダメだったのかを蒸し返してみたい。




新型コロナで先の見えない自粛が続く中で経済が急速に縮小している。そんななかで「経済的な理由から在学をあきらめよう」という学生が増えているそうだ。退学検討2割超という報告をする学生団体があった。もちろん、これが学生の全体の姿勢を示しているわけでもないと思うのだが「ありそうなことかなあ」と思った。

こうした状況を受けて蓮舫議員は「このままでは退学者が出てしまう」という危機感を示し「高卒になってしまう」という言い方をした。

これを聞いていて「ああ、これは炎上するな」と思った。実際に高卒で働いている人がダメなように切り取られてしまうからである。蓮舫議員は謝罪した。

まず良かった点から書いておく。受け取られ方の問題だという釈明をしないのはよかった。「言い方がダメ」というのは潔い割り切りである。日本ではなぜか男性のほうが意気地がない。ついつい「俺は悪くない、そういう受け取りかたをしたあなたがいけない」と言い訳をする人が多い。蓮舫議員は文化的背景もあるのだろうが日本人的な曖昧な言い方をしない。これは評価してもいいと思う。

Twitterには擁護コメントがたくさんついている。支持者たちは「味方」の失言が取り上げられ足元を掬われることを警戒しているのだろう。ただ、こうした擁護はしないほうがいいと思った。かばう側も「何が問題だったのか」はきちんと総括しておいたほうが良いだろう。

「退学を考える人が多い」というニュースと蓮舫発言を聞いて思ったことが二つある。

第一は「大学に行って勉強する気持ちも経済的余裕もないのだけれども」高卒というスティグマ(烙印)を押されたくないためだけに大学に進学したい人がいるのではないかと思った。つまり「蓮舫さんのような人から切り捨てられないようにするために」仕方がなく大学に行く人もいるのではないだろうか。日本は脱落を許さない社会なので、学費が払えないために大学に行けないとなるとそこで失敗者になってしまう。とはいえFラン大学と言われるように大学に行ったからといって昔のように「学士さま」とありがたがられることもない。

新型コロナのように外から何かが入ってくると「背中を押された」感じになってしまう。つまり、自分で失敗したわけではなく「仕方がなかった」といえるのである。この「2割(実際にはどれくらいなのかはわからないのだが)」の中にはそういう人が含まれているのではないかと感じる。

これまで日本人は「する」ことを嫌い「なる」を好むと書いてきたのだが、これも「なる」の一つである。なったら仕方がないと言える。

立憲民主党はこれまで寄せられている学生の困窮の声などを聞いてこのような提言を出しているのだと思う。つまり本当に勉強したい人もいる。だが仕方なく大学に行っている人も多いはずだ。総合政党は包括的な見込みを立てて先手先手で政策立案をしなければならない。「言い方がダメだった」で終わってしまってはその先がない。

政府は大学の無償化を通じて「誰でも大学に行ける」環境を作ろうとしているとされている。だがこれは政府と企業の選別政策の一つになっている。彼らは「一部の学士」と「その他大勢」を明確に区別しているのだ。これをきれいに言ったのがL型大学である。実質的にG型大学を残しL型を新しい高卒にしようとしているだけだ。立憲民主党がこれにどのようなビジョンを持っているのかはさっぱり見えてこない。

もう一つの問題が協業体制だ。ここでは二つの協業姿勢が欠けている。

第一に学生当事者の意見が全く見えない。日本人は政治的な意見表明をしない。特に若年層は「政治参加する人はどこか偏った考え方を持っている人だ」というイメージを持つようだ。「色がついて見えるのは嫌だ」という言い方をする人もいる。経済的困窮も学業脱落もスティグマなので当事者ほど表立っては意見を言わない。社会に救済を求めることは脱落の印でありそれを社会で共有しようとは思わないだろう。つまり、実際には「もう無理だしやめようかなあ」と思っていたとしてもそれを友達や学校と共有できていない可能性が高い。

そもそも、学生の側から「大学にはいつでも戻れるようにすべきだし、高校を卒業して必要な職業訓練を受けたら就職に困らないようにしてほしい」などと提言することは難しいだろう。社会の仕組みをきちんと把握しているわけではない。つまり学生と大人が「一緒に」考える必要があるわけだが、そもそも一方の当事者である学生が声を上げないのでいつまでたっても協業ができない。

仲間からのフォローアップもなかった。蓮舫議員は「失言した」側なので謝るしかないのだが、問題を拾って組織でフォローアップするという動きが出ても良かった。立憲民主党は昔から議員が独立した個人商店という意識が強く助け合いの気持ちを持てないのだろう。日本の集団主義は安全保障と相互監視の役割しか持たず協業の源泉にならないことが多い。だから、残念なことにこうした問題がすべて「単なる謝罪」に流されてしまうのだ。

おそらくこの失言はいいきっかけになるはずだった。当事者同士の話し合いにつながらず、単なる謝罪に終わってしまったのはとても残念だ。

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