大阪モデルは成功モデルなのか

先日、Quoraに大阪モデルは数値目標を明確に打ち出しており成功しているモデルなのではないかという寄稿をした。だが、そのあとに「7%という数字は信頼できないのではないか」というコメントが来た。いろいろ調べたのだが「何が正解」かがよくわからないという問題があることがわかった。それよりも気になったのがやはり党派性の問題である。おそらく日本人には問題解決のための議論は無理なんだろうなと思った。これが大本営発表を生み出す。




在りし日のくいだおれ太郎さん

まず第一に、大阪モデルについて評価する。東京が緊急事態宣言の収束のためのモデルを作れないのと裏腹に大阪は休業要請解除のための大阪モデルを作った。誰もが数値による出口戦略を示せなかったのだからこれは画期的だろう。翌日のワイドショーはこの決定を称賛する声で溢れていた。

大阪府知事のプレゼンテーションはこれらの数字を漠然と並べたものだったのだ。使っているフリップも立派なものではなかった。だが、翌日のマスコミはこれを三つの構成要素に分解していた。これが却って「実質的な仕事をしている」という好印象を与えることになった。

  • 患者の動向
  • 医療体勢の余裕度
  • 検査体勢の充実度

西村担当大臣は「出口戦略を示すとは考え違いも甚だしい」と憤り、これが報道されると「仲良くやって行こう」と修正した。大阪府知事はこれを涼やかに受け止め「ちゃんとやっている大阪を国がいじめている」という印象も作られた。西村大臣はその外見も相まって悪役キャラになってしまったのだ。

陽性率が出せないのは新規感染者と陽性患者の数字が出ていないからだ。東京都を含む12都県が発表していないそうだ。東京都にはデータ収集分析の仕組みがないと都の担当者も認めている。さらにノーベル賞受賞者山中教授も「東京の実態は掴めない」と発言している。つまり数字が出せないのは国のせいではない。国は権限を縦に威張るのではなく、単に地方自治体に「なぜ数字が出せないのか」を聞いて支援すればよかったのである。だが、国には司令官が不在(安倍総理大臣が出てくることはないだろう)なのでプレイヤーとして動き回っている。

このことから「東京はできていないことが大阪はできているのだから大阪はすごい」という論を導き出すことができる。「維新は物言いは荒いのだが実行力はある」という結論が出せるのである。

大本営発表を作る無能トライアングルはこの相互作用で作られる

ただ、7%という数字は経験的に知られているだけであり、結果的に「医療崩壊」を招いたところではだいたい7%を超えているようだというくらいの数字であるようだ。しかも一つの論文(千葉大学大学院の研究チーム)によって提示されているだけだそうである。このラインを超えると死者の数が5〜10倍になるのだそうだ。

日本には実験室的な正解に拘る専門家気取りの人が多い。「今取得可能なデータを使ってなんとか指標を作ろうとしている人たちを否定してしまう。これが専門家のトラップである。日本全体の方針は感染研と医療技官が中心という専門家のトラップに囚われたものになっている。だが、日本は実験室ではないし日本人はモルモットでもない。

日本のコロナ行政は臨床者・実務者と実験者・中央官庁という対立がある。実際に動いている人と計画を立てている人の間に意識のズレがあるのだ。だが、これだけでは大本営理論は完成しない。そこには背景になるもう一つの要素がある。

看過できない報道を見つけた。「PCR検査、大阪で最長10日待ち 医師「保健所受け付けず」 民間委託で拡充急ぐ」というものである。

我々には国(厚生労働省)がデータを出してくれてないという気持ちがあるので数字を出してくれている大阪府が救世主に見えてしまう。そこで「数字が出せるということはきちんと把握しているのだろう」という見込みを持ってしまうのだ。

ところが記事を読むと、大阪市(大阪府ではなく)管内の保健所では検査をちゃんと受け入れてくれていないということがわかる。するとこの7%という数字が全く違った意味を持ってしまう。つまり、絞り込みもできていないし(だから陽性率が低い)検査数も低いという全く違った評価になってしまうのだ。

さらにこれも一面的な見方でしかない。「大阪は全容を掴むために絞っていないから検査数が多くそのため待ちが生じている」という評価もできる。岡田晴恵さんなどはそう言っている。

つまりこの7%という指標はそもそも根拠が曖昧な上に見方によっては別の意味合いも含んでいることがわかる。つまり手放しで承認してはいけないが今は使わざるをえないというような数字なのである。ここから「大阪のやり方は常に監視が必要」なのだ。

指標を作ると必ずなんらかの批評が出てくる。本来は、数値をクロスチェックすることにより信頼に足りるものかを評価し続けなければならない。だが日本人はどこかで党派性に捕まってしまう。おそらく全面的に誰かに依存して安心したくなってしまうのだろう。だから全面的な正解・全面的な否定のどちらかに堕ちていってしまうのである。それが大本営発表を生みやすくなる。一度称賛されたモデルはその後も「勝ち続けなければ」ならなくなってしまう上に、失敗しても誰にも責任を取ってもらえないからだ。

実は大本営発表が作られる裏には受け手の方のメディアリテラシの問題もある。このことは意外と忘れ去られているのではないかと思う。

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