日本には言葉による牽制はあるが議論はない

新憲法の担当大臣だった金森徳次郎が「憲法を愛していますか」の中で面白いことを書いている。他人が自分の意見い反対すると、すぐ腹を立てる、ちょっと意見が違うと仇のように思う、こういう傾向があって、天下に一つしか真理はないというきもちではありますが、というのだ。戦後すぐの1951年に書かれた文章なので当時からそれほど変わっていないんだなあと思った。




金森は文章の中でアメリカの民主主義と日本を比べている。アメリカでは民主主義が徹底しているのは封建主義から逃れてきた人たちがアメリカを作ったからだ。アメリカは個人が元になっている個人主義の社会だが同時に「コーパレーション」という言葉を多用すると指摘する。コーパレーションとはつまり協力のことである。

金森はこの「コーパレーション」の意味を正しく理解しているようだ。コーパレーションというのは異なった機能のものが協力することであると考えている。同じ価値観の人たちが徒党を組むわけではない。一方、日本人は強いものに従うという「封建主義」の社会を生きていて違ったものが協力するとという考え方にあまり敏感でないと指摘する。

これは海外事情を知った人が「陥る」典型的な状態だろう。日本人でありながら日本人ではなくなってしまうのである。

日本人は「国体がどう変わったのか」という形の議論には極めて強い関心を持っていた。貴族院(参議院)の議論ではこの点が理屈っぽく詰問された。金森は「国体は水のようなものであって川が流れて行くように変化しても水そのものは変わらない」と、禅問答のような理屈で乗り切った。

ところが、社会協力を権威主義的に上から押し付けられるものから個人個人が違いを認め合い自発的に協力して行くものに変えてゆくべきだという変化にはそれほど関心を示さなかった。当時もそうだったようだし、今でもそれはあまり変わっていないように思える。

日本人は自分が変わることを嫌がり他者を変えたがる。そして、形にはとてもこだわるが自分の心理はあまり見つめたがらない。これが日本人の議論ベタの理由になっている。日本人はおそらく勝つために議論をしたがる。勝てば自分が変わらなくて済むからだ。

具体的な例をあげてその中身をもう少し考えてみたい。

丸山穂高議員が「北方領土を戦争して取り戻しては」といったとき、世間では「丸山穂高をリコールしろ」という動きが起こった。ところが日本国憲法には「国会議員リコール」という規定がない。今回金森の文章を読んで「当時の国会では国会議員がリコールできないと国会が暴走したときに国民の対抗手段がない」と議論になったことを知った。丸山穂高の例もあるのだから日本もリコール規定を作ればいいのではないかと思った。

ところが「現在の憲法には国会議員のリコールをやってはどうか」と聞くと今度は否定論ばかりになる。なぜ否定論が出てくるのかは書いた人に聞いてみるしかないのだが、おそらくは「何か言いだしてくるということは何か隠れた意図があるのではないか」と感じるからだろう。うかうか賛成して相手の提案に乗ってしまっては損だという気持ちが働く。だが、実はそれを考えるまでもなく「とにかく相手が何か提案してきたら自分にトクがあるとわかるまでは変えない」という性根が染み込んでいるのかもしれない。

日本人は「有権者が国会議員に対指定リコール権を持つべきか」という議論はしない。その時々に「相手の気に入らない言動をどうやったら阻止できるか」という縛りあいの一貫した論理で動く。丸山穂高を止めさせたいのは丸山を阻止するためである。だが阻止一般には興味がない。損得がよくわからないからだ。日本人の判断は相対的である。

今回の「政治家が検察庁の人事に介入すべきか」という議論も同じだった。安倍政権は検察人事に介入したかった。結局残したい人がいなくなりそうなので公務員全体の定年延長議論をやめようとしている。公務員には立憲民主党支持者が多いので「立憲民主党のトクになると困る」と考えたのだろう。そのために「新型コロナで雇用情勢が変わったから」と無理筋の説明をしている。一貫性が極めて乏しい。ところが対する立憲民主党の柚木道義議員も「黒川検事長を政治的に辞めさせろ」と主張したそうだ。つまり政治的に介入しろと言っている。つまり、立憲民主党の側も「安倍政権のトクになることはやらせたくないが損することはやらせたい」と思っているだけである。これも縛りあいの議論だ。

このように「日本人が縛りあい」という一貫した心理で行動していることがわかる。一方で制度や協力にはあまり興味がない。日本人の議論は縛りあいであり、したがって議論をしても得るものは少ない。そもそも日本人と議論をするのは無駄なのだということがわかる。その最たるものが憲法論争だろう。憲法には文脈がない。あるいは文脈によって解釈が変わるような文章は憲法にならない。

だが不思議なことにこの性質のために誰も強いリーダーシップを発揮して「暴走」することがない。安倍総理が結局のところ暴走しなかったのは日本人のこの縛りあいのためである。安倍政権は7年以上もかけて政権の独裁化ができなかった。そればかりか無力化しつつある。無力化させておいたほうが良いという人たちが大勢いるのだ。

このことからおそらく日本人の議論が下手というのは間違った印象である。日本にはそもそも政治的議論がないのだ。

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