テラスハウスの出演者が亡くなったという話

テラスハウス(Netflix)に出演していた木村花というプロレスラーが亡くなった。死因は発表されていないが自殺だと考えられているようだ。ネットには「SNSでの誹謗中傷はやめるべきである」という声が多数寄せられているようだが、おそらくこの種の事件はなくならないだろうと思う。極めて日本的な村の構造に立脚しているからである。




ネット記事では「木村さんはショーの中では悪役だった」ということだ。そのために「ショーからいなくなるべきである」という声が殺到して最悪の結果に追い込まれたということになっている。きっかけは男性の洗濯の仕方をなじったというとても些細なものだった。こんなことでバッシングが起こるのかと思った。

同じように過激なリアリティーショーで知られるアメリカでも同様のケースが起きているのではないかと調べてみた。「コンペ型のショーで脱落して自殺した」という人はとても多いようである。アメリカは個人ベースの競争社会なのでこの手のショーに人気がある。参加者も競争に負けたのだから生きている価値はないと考えてしまうのだろう。そこで最後の派手な演出として自殺を選んでしまうのである。

ところが、ショーによる過激な言動が原因で顰蹙を買ったというケースはあまりないようだ。ここは想像するしかないのだがアメリカは個人主義社会なので「言われたら言い返す」のだろうと思った。日本版のテラスハウスを見ていないのでよくわからないが、自分の考えていることを婉曲に言ったり告白という秘めている気持ちを開陳する文化があるということが珍しがられているという。日本人は自分の考えていることを表に出さない。

つまり、木村さんを攻撃した人はおそらくショーの外側から攻撃されている人を援護しようとしたのであろうということがわかる。そして、援護とは「社会的に木村さんを抹殺してしまうこと」なのである。これが恐ろしい。

これを匿名卑怯者と非難する文章を見つけた。ではなぜ匿名の一般人が暴走したのか。あるいはこれはそもそも暴走なのか。

実はこうした構造は日本では極めてありふれている。個人ははっきりと物を言わないのだが匿名状態になると徒党を組んで相手を排除する。例えば芸能人が不倫をするとワイドショーで取り上げられてネット世論からの攻撃が不倫をした人に向かう。テレビ局はこうした「いじめ」が日本人の娯楽になるということがわかっている。

政治情報もこの構造に乗って消費される。人々は政治には興味がないのだが気に入らない政治家がいると辞任をもとめ、総理大臣の任命責任を問題にする。同じ圧力は内閣だけでなく野党にも向かうので野党は問題を起こした議員を一時的に会派から離脱させて「問題をなかったこと」にする。

さらに前回見たTwitterデモにもこの構図がある。持続化給付金を待っている個人の心情は無視される。メールをいただいたがこうした声もTwitterデモの形にならないとマスコミにも政治家にも取り上げてもらえない。群衆は何をしでかすかわからないので、黒川検事長の件も定額給付金の件も群衆になって初めて騒動になった。逆に「ただ知りたいだけなのだ」とささやかな希望を持ってもそれは無視される。集団でより乱暴にということはむしろ推奨されている。個人を無視し続けることでそれは助長される。つまり「卑怯者」を作っているのは個人の意見を聞かない社会である。

日本は個人を無視し群衆が大きな力を持つというとてもいびつな構造を持った社会である。

日本では社会規範を逸脱した人の社会的生命を奪うために匿名で攻撃しても良いということになっている。ワイドショーは現在のコロッセオであり政治家や芸能人は剣闘士だ。ちなみに剣闘士とは当時では戦争捕虜や奴隷身分だった。日本では顔のない群衆にしか本当の意味での市民権は与えられないのであって、名前を出した途端に「奴隷身分に格下げになる」ということがわかる。よく有名税という言い方をするが税ではなく身分の移動なのだ。

日本のネットの匿名性は2014年の総務省の調査でも明らかになっているという。これについて分析した二次情報が見つかった。総務省も「匿名利用しているつもりでも特定される可能性がありますよ」という「ネットリテラシーの問題」として取り上げている。あくまでも個人として特定されることを問題にしている。SNSで個人をさらすことはリスクであると語られるのが日本社会なのだが、問題を起こした時だけ「卑怯者」とか「暴走」などと言われる。

おそらく「木村花さんをいじめたものを特定して吊るし上げろ」という人は、木村さんが追い詰められたのと同じ競技場にいじめたものを引き立てよと言っている。これが日本という前近代的な村落の正義であり娯楽なのだ。学校で群衆によるいじめがなくならないのと同じように、日本の村落社会に根強く残った問題として群衆の個人いびりは続くだろう。匿名のほうが社会的に重んじられるという構造があるからである。個人は社会の奴隷でありある空気に乗った群衆こそが暴君として振舞えるというある種の絶対王権社会だ。日本の主権者は国民一人ひとりではない。群衆なのである。

今回の件は本気で解決するつもりがあるならこうした前近代的な娯楽そのものを全て解体しなければならない。例えばそれは芸能人の不倫を暴く週刊誌やワイドショーを解体することになる。

だが、この話題を取り上げている日本人がそこまでの気持ちを持ってこの問題に対峙しているとは思えない。当事者たちは一体何をやっていのか気がつかない。これが前近代性の恐ろしさである。我々が一人ひとりとして行動し始めるまで、我々は群衆(つまり我々自身)に支配され続けるだろう。

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