日本人が持っている一歩を踏み出して失敗することにたいする恐れと安倍総理の空っぽの国体思想

先日来給付金について書いている。どうやらちゃんとシステムが作られないということと給付金が支払われないということに対しては関心が高いようである。だが、その矛先にはある見えない壁があると思う。安倍政権批判にはつながらないのである。新型コロナ対策で安倍総理の姿を見ることはなくなった。




日本人がというより個別の人々が反応したのは「自分のところにお金が入ってこない」ことに対する不満だった。おそらくこれは6月に入り解消してゆくに違いない。つまりこの問題が沈下するのは実は時間の問題である。

本来はキャンペーンサイトしか作ったことがないところがお金の支払いに関わるシステムを作ろうとして失敗したというところまでは理解されるようである。ただトンネル会社に関してはそれほど火がつかないかもしれない。具体的に電通の幹部が「日本人ちょろいなあ」などと言いながらどこかで豪遊するというような報道でも出れば別だがそんな話はない。電通を「悪の企業だ」と感じている人はそれほど多くはないようだ。

再委託が良くないということも説明をするとなんとなく理解してもらえるようだ。責任の所在があいまいになるので説明責任の観点からこれは好ましくなかった。以前から再委託の撲滅について動いてきた官庁が再委託を前提にしたスキームをつくっていたのだと説明すると「ああそれはまずかった」ということになる。ではそれを変えるために何か働きかけてみては?という段階になると皆が下を向き「それは……」ということになる。

官僚がトンネル企業の定款を作ったという点についても理解されるようだ。つまり官僚というのは国民資産の私物化を図っており今回もその一環であろうという理解はあるようだ。だが自分が動いてそれを変えて行こうという人はほとんどいない。社会で怒りを共有するという文化が完全に消失している。いわゆる自己責任社会というのは、社会が本来持っていた問題意識を共有するという機能を完全に喪失した社会である。あくまでも日本人が反応を示すのは個別具体的に自分に関係のある話だけなのである。

ただ、これが安倍政権批判になると途端に矛先が鈍る。もちろん反政権の人たちというのはいてそれなりの盛り上がりがある。だが肌感覚としてはおそらく1/3を越えないのではないかと思われる。実際にはその半分(つまり17%程度)くらいかもしれない。

どうやら安倍政権はこれまでの政権が掴んでいなかった「何か」をつかんでいる可能性が高いと思う。だがそれが何なのかはよくわからない。

そこでまず思いついたのが「国体」である。では国体とはなんなのだろうかと考えるとそこでまた壁にぶつかる。

第一にすでに説明したように、我々の社会は問題を共有したり共感したりという機能を完全に失った自己責任社会である。つまり社会に機能はない。

するとそれはなんらかの精神的なものである可能性が高い。だが「日本人とは何か」と聞いてみても漠然とした答えしか返ってこない。国体とは天皇をいただく日本人のことであるという人はいる。では日本人とは何かと聞くと、それは肌の色が黒いわけでなく朝鮮人や中国人の先祖がいないというように「〜でないもの」という答えにしかならない。「色が付いていない」ことが重要である。それは真水のように澄んでいると考えられるからである。だが水の正体を自己規定することはできない。なんでも溶けるから水なのでは?というと「それは違う」という。

実際の機能もなくアイデンティティもない。だが「まっとうな人たちが持っている自分たちを正当化したいという気持ち」はある。真面目に働いているまともな人たちは自分たちは真っ当な社会の正当な一員だと感じたい。社会にはある種の正解がある。それは正社員になって結婚して一軒家を建てて子供を作って真っ当な家庭をつくるということである。それを外れたものは「不正解」であり「負け」である。恩恵もなく正体もないがその縛りは大変きつい。では何がそれを縛っているのかという答えもない。我々は空気によって縛られている。

第二次世界大戦が終わり憲法の改正を迫られた時も日本人(特に国民議会である衆議院)がこだわったのは「日本の国体が変わらない」ことだった。金森徳次郎担当大臣は「川は流れて行くと形が変わるが水は変わらない」と説明したわけだ。おそらく日本人が気にしたのは水に混じり物が入って「国体が変わってしまう」ことだったのだろう。

どうやら安倍政権を攻撃することはその真っ当さの破壊につながるという共通認識はあるようだ。おそらく安倍総理が「美しい国へ」でつかんだのは曖昧で実体がないからこそ守らなければならない最後の一線なのであろう。つまり、日本人が試行錯誤してつかんだのは空虚だったのである。

素朴ではあるが強烈な思い込みを合理的な思考で解決することはできない。「国体」には聖書のような教義的なバックグラウンドはない。それゆえにその場その場に応じて都合の良い解釈をしながらなんとなく自分なりの「混じりけがない何か」を作ることができる。一人ひとりがとじこもているが故に成り立つ何かがある。協力しようなどと考えれば他人の嫌なところが目につく。だが協力することさえやめて問題を忘れてしまえば誰でも「美しい国」に安住できる。

安倍総理のいう「美しい国へ」にでてくるような空虚ではあるが甘美なメッセージは空虚であるが故に人々を引き付けるのかもしれない。

来週から国会が始まる。補正予算案などが審議される予定だそうだが、同時に持続化給付金の問題も話し合われるそうだ。おそらく安倍総理にとって一番いいのは「何もしないこと」だろう。大勢の人を見殺しにしても何もしなければ失敗はない。おそらくこれが日本のサイレントマジョリティの考えていることだ。我々はもう失敗を見たくないのである。

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