三浦春馬さんの自殺について考えたこと

俳優の三浦春馬さんが亡くなった。30歳だったそうだ。これについて色々と考えた。容姿と才能に恵まれていて仕事もあるのになぜ自殺を選んだのかというのが最初の疑問だった。だが考えているうちに別のことが気になった。放送で使われるご本人の発言がどれもあまりにもポジティブすぎるのだ。放送はこれをどれも「いいことだ」と言っていた。




これについてテレビでは「ご本人はなぜあんなにポジティブだったのに極端な選択を選んだのか」とまとめている。おそらく視聴者のニーズに応える(つまり広告が売れる)から扱ったのだと思うのだが「コンプライアンス上の都合」で美談調に扱う必要があったのだろう。この気の使いようは相談ダイヤルのおざなりな紹介にも現れていた。みんなが興味を持つから扱いたいがあまり深く考えたくない。そおで相談ダイヤルに後処理を「丸投げ」してしまうのだ。

このおざなりさが何を意味しているのかが一応の考察ポイントになる。

ポジティブさについて一般の人たちがどう考えているのか知りたいのだが、自殺という「結論」ありきではそれに影響されたコメントばかりになるだろう。そこで「自殺という情報をマスクして」聞いてみたらどんな反応が得られるのだろうかと考え、質問サイトに質問を投稿してみた。

4つの回答がついた。まず「ポジティブとネガティブの整理ができていない」という否定から入る投稿があった。日本人は正解が導き出せない問題を不快に感じるという傾向がある。教科書に書いていないことを自分で考えるのが嫌なのである。この場合、問題を否定してしまうのが手っ取り早い。もう一人は「夜ぐっすり寝られることが重要」として回答を避けている。

おそらく極端な選択肢を抱えている人が最初にぶつかるのはこの戸惑いと否認だろう。ここから誰かに相談できなくなるであろうことは想像に難くない。質問者は「行き過ぎたポジティブさ」が極端な結論に結びつくことを知っているので違和感を感じてしまうのだが、回答者たちはそれを知らない。だから仕方がない。

次の回答は「波動」という考え方に陶酔していてそもそも参考にならなかった。精神世界に耽溺する人は少なくない。説としては面白いのだが問題を解決したい人には役に立たないだろう。

最後の回答は「問題をリフレームして考え方を変えるように」とエンジニアリング的な手法を紹介していた。今回の4つの回答の中では唯一ソリューションベースの回答である。おそらく合理的な思考ができる段階では有効なアドバイスなのだろうが、ある極端な領域に立ち入ってしまうと役に立たなくなる。

気のせいだ、気の持ちようで克服できるという回答が多かったわけだが、逆に「ないもの」も明確になった。

  • まず私が聞いてあげるからあなたの問題を整理してみようという共有視点はない。
  • 社会全体で共有すべきだという視点もない。
  • 問題があるなら正直に誰かに開陳してみるべきだと問題への立ち入りを避けつつもアドバイスを送る視点も存在しない。

日本はかなり行き過ぎた競争社会である。女性のレイプ問題を見てもわかる通り「問題を起こした人に問題がある」とか「被害者意識を持ちすぎだ気のせいだ」と問題を否認し共感を拒む。また「個人の力量で考え方を変えてなんとか乗り切るべきだ」という「自己責任型エンジニアリングソリューション」も根強い。

「気分が下がるから厄介ごとは村に持ち込むな」という精神があり皆それに適応して生きている。

では「その厄介ごと」とは何なのか。それはおそらく周囲の期待を脱却して可能性を探索するという行為である。短い言葉で言ってしまうと「成長への旅」である。

三浦春馬さんの場合「期待される個人像」がありそれに応えるのが仕事だったわけで、さらにこの傾向が強かったのだろうと思われる。さらに完璧にそれに応えることができてしまったということが最終的な悲劇につながる。その中でもご本人はアメリカに進出したいという「成長欲求」を持っていた。これが周囲にいた人たちにどの程度援助されていたのかが問題になる。

おそらく今の期待を放棄して成長を模索することもできたのだろうが、三浦さんはうまく周囲の期待に答え続けていた。つまり三浦さんは「表面上何も問題がなかったのに極端な結論を選んだ」のではない。「表面上何も問題がないように振る舞えたから極端な結論以外選ぶことができなかった」のではないかと考えられる。

だがワイドショーは「この問題を下手に扱うと炎上しかねない」という恐怖心のあまり、問題のコアに触れることができない。代わりに「相談センターがあります」と問題を先送りし他者に丸投げしてしまった。

さらにワイドショーが避けていた問題がある。それは相談者に関するものである。最初の相談者である父親の不在だ。では父親の存在が成長とどう結びつくのか。

この問題はいささか複雑だ。日本には強い標準家族幻想がある。つまり血の繋がった両親と子供というセットが当たり前とされている。だから、標準的でない家族について扱うと「異端扱いすべきではない」という批判が来る。このため三浦さんの家族の問題についてメディアがこれを扱うことはできない。家族の問題を暴くなということになってしまうからである。

言葉の端々から三浦さんが「父親のような何か」を求めて年長者に真摯に接していたことがわかる。サーフィンの師匠、殺陣の師匠、近所のパン屋など「親のように」慕っていた人が複数いたようだ。だが三浦さんが選んだのは「完璧な生徒である」ことで認められるという道である。その意味でも彼はうまくやりすぎた。

ユングは「中年の危機」論の中で「劣等機能」が表面化するのはだいたい40歳くらいだと言っている。これを上手に成長させることが個人の成熟につながる。ただ成長には導き手が必要である。三浦さんは枠を崩してくれるような導師が持てなかった。

同じように彼の道をたどることはできないが、今回の小さな実験からも行き過ぎた自己責任社会である日本社会において劣等機能の導き手を探すのはとても大変だということがわかる。できないこと、うまく行かないことは生産性の低い悪いことでありお荷物であると考えられる生産性至上主義で成長するのはとても難しい。

三浦さんの問題を考えると、普段からこのブログで考察している世襲政治家のありようもよくわかる。彼らは周囲の期待に応えるために自らの持つ隠れた可能性を放棄した人たちである。彼らが選択したのは過去の成功体験であり未来の可能性ではない。逆に周囲が「望ましい」と感じる機能を鎧のように身につけて行きそれが脱げなくなる。例えば麻生副総理兼財務大臣の「吉田茂コスプレ」などが典型的だろう。だが、日本は成長を諦めた人ほど上に上がることができるという極端な成長放棄社会である。成長を諦めた日本の世襲政治家にはある種の子供っぽさがある。

このように三浦さんの問題の裏には「隠れた次元」がいくつかある。そしてそれは現代を生きる日本人であれば誰もで大なり小なり抱えている問題であり決して三浦さん個人の問題ではないだろう。

究極的にどういう生を選ぶのかというのは個人の選択だとは思う。だがそのためには考える材料が必要である。我々の社会はそもそも考えることすらしていないし問題の共有すら放棄しているという事実はもう一度考えたほうがいいと思う。おそらく日本型の自己責任社会は個人の成長を諦めた破綻社会であり、周囲にも諦めることを強要する残酷な社会なのだ。

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