野田洋次郎の「個人の見解」を炎上させた死生観を扱えない社会

野田洋次郎さんの個人の見解がまた炎上しているそうだ。もともと「この人はすごいなあ」という感想だったと思うのだが、おり悪く難病ALS患者の嘱託殺人事件で「優生的思想」が話題になったために炎上したのだろう。以前にも「国家主義的な」発言が炎上していたのでリベラルのひとに目をつけられているのかもしれない。だが、現在もこのツイートは生きていて「消さないだけ偉いな」と思った。英語圏で教育を受けておりこの種の発言に慣れているのかもしれない。




日本人は政治と宗教の問題が苦手だ。今回の「優生的思想」問題はそもそも「遺伝子選別」というより「役に立たない人を処分したい」という別種の問題のようだ。それがごっちゃになって語られるところからもその苦手ぶりがわかる。苦手で考えたことがないから「発言すること自体がいけない」ということになってしまう。そして考えないことで余計発言が地下に潜り過激化するという悪循環が起こる。

日本人がこうした問題に苦手意識を持つのはコアになる死生観を学校で教えないからだろう。政治と宗教という正解のない面倒な問題には手をつけないというのが日本の学校教育である。これが日本社会に消えない大きな傷を与えているのだが、当事者たちはそもそもそれに気がつかないようだ。日本社会は正解のない問題を生徒に教えるべきだ。

前日考えたように、我々は「高齢者・難病を抱えた人・社会生活を営むのが難しいとされている人」を押入れの中に封じ込めて見ないようにしてきた。これにも正解はないので、不都合を誰かに押し付けて見ないふりをするしかない。これが考えないことの直接の傷である。

今回のALSの嘱託殺人の話でいうと、アスペルガーと診断されて社会生活に難があるうえに自殺願望があった医師が精神科の医者でいられるという問題がある。また経歴を詐称して医者になった疑惑がある人も長い間医師として働いていたようだ。医療行為の現場に社会の目が向いていないのでなんでもありの現場になってしまう。これだけでも社会を揺るがしかねない大問題だが、山積する課題に疲れ果てた日本人はこのニュースをあまり話題にしないだろう。おそらく罰則の強化くらいの話に終わるのではないか。

さらに、4年前に起きた津久井やまゆり園では問題を直視することすら放棄してしまったようである。神奈川県知事は医療に関心があるはずだがそれでもこの問題をまともに扱うことを諦めてしまったことになる。そもそも問題解決に興味がない東京都知事の小池百合子さんとはわけが違う。

検証作業がコロナ騒動の影で中断されたようである。毎日新聞がひっそり書いているということだが検索してみるまで中止されていることすら知らなかった。関係者を処分するとパンドラの箱が開きかねないという苦い話がいくつもあるのだろう。

日本の医療介護現場はある種の「ゴミ箱」になっている。ゴミ箱という言い方が悪ければ押入れか納戸である。

個人的には高校時代に「日本人が生命倫理について考えないなあ」と思った記憶がある。ミッションスクールでは死生観の問題は折に触れて扱われていた。宗教教育というと聖書を基にして正解を教えるのだろうと思う人もいるだろうが先生は問題を投げかけて考えさせるだけである。答えはその人が一生をかけて探すことになる。

ところが高校に進学するとまず先生にこうした素養がない。もちろん生徒はそんなことを考えたこともない。だから外では「話し合っても仕方がない」のでこうした話はするべきではないと学習することになる。これはある日突然始まるわけでもない。そもそも家庭でこんな話はできない。薄々は感じていた「普通の日本人とはこういう話をしてはいけないんだろうな」という感覚を身につけた人も多いのではないか。

宗教くささを脱臭した日本の学校や家庭は「役に立つ役に立たない」という合理性だけで物事を「片付けよう」とする。こうした環境で育つと「役に立たない人は無意味だ」と考えるようになる。これが外に向かうと「同性愛カップルや障害者には生産性がない」という議論になる。

だがもっと厄介なのはこの生産性議論が自分や家族に向いた時である。これが第二の間接的な傷である。

世間のスケールでみると「自分が役に立たない」と考えた人はまず自分を責めるだろう。中にはそれを乗り越えて攻撃性を他人に向けることもある。さらに「役に立たない」子供を育てるようになった親も同質の問題で悩む。こうしたやり場のない憤りが今回野田さんにも向かっているものと思われる。

おそらく野田さんに攻撃を向けている人たちが本当に抱えている問題は「自分が社会に許容されるのか」という問いに答えが見つからないことだろう。実際の野田さんへのコメントにも自分語りがいくつかみられる。

これを考えるためにはそもそも

  • 世の中には役に立つ・役に立たないでは割り切れない問題があり
  • 人間は本質的にそれを知ることができないから
  • とりあえず今ある生を生き抜くしかない

という認識が必要だ。だが日本の学校は正解しか教えない。

日本は第二次世界大戦という究極の理不尽を経験しているので昭和時代にはそれなりの死生観があった。問題はおそらくそれを語り継いでこなかったことだ。答えがない問題二世会を出さなければならないという焦りが自分や他者への攻撃に向かうのである。

Twitterを見ていると思想や哲学を生業にしている人の中にも「こうした問題はそもそも扱うべきではない」と考えている人が少なくないことがわかる。実際にQuoraで何人かと話をしてみたが「ああこれは無駄だな」と思った。核になる死生観がないのでロボットと話をしているようにしかならないのである。

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