日本人が政治を語れないのは正解に帰着してしまうから

文章を毎日書いているがとりとめなくなってしまうというお悩み質問に回答した。これを無理矢理に日本人が政治議論ができないという話に書き換えた。「強引だなあ」と思われそうだが、個人的には意外と面白かったのでまとめ直したい。これを延長するといろいろな説明に使える。例えば高付加価値型のサービス産業が日本で発展しなかった理由もわかる。




日本の文章教育の原点は起承転結である。この起承転結の教育意図を具体例から考察したい。題材は沖縄の修学旅行の思い出である。

  • 沖縄に修学旅行に出かけた(起)
  • ビーチがきれいだった(承)
  • しかしよく見てみると基地が多い(転)
  • 新しい発見があった(結)
    1. 基地にはたくさんのヘリが置いてある。どれくらいの殺傷能力があるのだろうか!かっこいいなあと思った。
    2. 基地によって日本は守られている。これで中国と争っても安心だ。
    3. 日本の平和は沖縄の犠牲によって守られているのだ。

もともと起承転結は漢詩の文型なので「内面の驚き」を表現するための文型だ。もともとは「含蓄」と余韻を「結」の部分に持たせるのだそうである。詩作の文章を文章教育の基本にしているのは「個人が意見を持つことをよしとしないから」だろう。文章というのは内面を表現するものであってそれを超えて社会に訴えかけてはいけない。なので日本人は社会に対して個人の意見が持てない。最初から徹底的に禁止されているのである。社会参加という側面から見ると日本人は徐々に去勢されてゆくのである。

だが実際の起承転結は漢文のそれとも異なっている。

今回の沖縄の事例では三つの異なる結論を作った。先生が朝日新聞を読んでいるような人であれば基地の悲惨さを発見してあげたほうが良いのだが、読売新聞や産経新聞を読んでいる人には同盟が与える安心感を発見してあげたほうがいい。おそらく「この武器で何人殺せるのかなあ」というような発見は書かないほうがいいだろう。人殺しは良くないからだ。

おそらく早い子供は小学校の高学年くらいから「どんな結論にすれば先生に受けるか」ということを認識するだろう。おそらく子供の時には「子供らしくはつらつとした」発見を転に置いて素直な感想を「結論」に持って行くのが良いとされるのではないかと思う。

つまり日本の文章教育は「自分の考えは自分の中に収めるように」ということを教えるのみならず「私が考えていることを忖度してその通りのことを自発的に発見しろ」と強要している。日本人は早くから「周囲の期待通りに動いたら褒められる」ことを学ぶ。つまり個人の内面的な発見すら禁止されてゆくのだ。感性も去勢されるのである。

西洋流のエッセイは次のような構成になる。具体的には三部構成にするのが良いそうだが、考察部に反論を加えたほうが客観性が増すだろう。

  1. 私はこれついて考えたい。
  2. 私はこう思う。なぜならば「〜だから」である。
  3. 「〜という意見もあろう」が私は「〜」と考える。
  4. このトピックに関して私はこう思う。

「私」がたくさん出てくる。例えばこれを政治的議論に応用すると、2と3の部分について批判してやると政治的議論が成り立つ。1で立論したトピックについての結論が変わるからである。だがあくまでも批判しているのは根拠であって個人攻撃にはならない。

だが、日本人にはこれができない。

  • そもそもこういうやり方を知らない。
  • 個人の意見は社会に影響してはならない。また教師は自分に忖度するように期待する。だから主語に「私」が使えない。このため「だから」がみんなから承認されるまで証拠として採用できない。

ということで実際の政治議論はこうなる。

  • 中国が悪い・共産党や立憲民主党の支持者のいうことはすべて偏っているから聞く必要がない。
  • すべては安倍政権のせいである。

周囲の期待に沿って安住するのだが実は正解が複数ある。こうなると起承転結が成り立たないうえにまとまることもできなくなる。つまり転がなくなってしまうのである。あとは同じ議論の繰り返しだ。だが私と周囲が不可分になっているので「私はこう考えたがやはり考えた結果その考えが正しいことが社会的に証明された」という文章が量産されてしまう。Twitterには幻想の共同体がいくつかある。

自民党を支持している人は「日本社会の正解」を主張しているだけだ。つまり自分たちは正解の側にあると言いたいのである。最近のQuoraの政治議論を見ていると「政権に反抗していると見られたくない」という人も増えた。実名社会とはこんなものかと思う。問題は明らかに見えていてかなり戸惑っているようだが自分が引いた線の外側には出ることはできない。

だから今の日本人は「消費税は正解ではない」と思っていてもそれは言い出せない。野党に至っては正解から外れているという気分がある。こうなるともっとまとまれない。誰も他人の意見を聞かないからである。ついに名前で揉め始めた。

小池百合子東京都知事のように「今日から私が正解になりました!」と宣言することで政権を奪うことも不可能ではない。一旦正解になると同調圧力が内部から働くのでしばらくその政権は安泰になるだろう。問題が起きてもそれは誰かが潰してくれる。

こうした「正解に固執する」気分は日本経済が悪くなってから徐々に顕著になった。例えばバブルの頃は「イタリア製のぶかぶかのスーツを着る」というような奇妙な正解はあったが、政治の世界で正解に固執する人はそう多くなかった。みんな生き方に「自由」を求めていたからである。

この「自由」が失敗したことで、おそらく怖くて一歩も踏み出せないという人が増えたのだろう。バブル崩壊後に生まれた人はもはや自由の意味すら知らない。ひたすら自民党が提供してくれるであろう正解を期待している。だが皮肉なことに自民党もみんなが支持してくれる正解を求めている。どちらも待ちの姿勢である。誰かが正解を出してくれることを期待しているうちに新型コロナと米中対立という正解のないパズルが持ち込まれたのが今の日本の政治状況だ。

こんな中で差別化が新しいイノベーションを作るようなサービス産業が発展するはずもない。サービス産業とは「私」が考える新しい正解を賛同した人が普及させてゆく産業だからである。

おそらく日本人はこの便利な生活を維持したままでみんなが仲良くマニュアル通りに米を作っていれば生きられるような社会に戻りたいのではないだろうか。つまり日本の生活を維持したままラオスのような社会に戻りたいのだ。残念ながらそれは不可能である。

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