宝塚で不文律が廃止される – 自律的なマネジメントができなくなった日本人

宝塚音楽学校で長年の不文律が廃止されたそうだ。廃止されたのは主に上級生が下級生を指導するための「習慣」である。朝日新聞は見出しに電車にお辞儀をするという例を使っている。タイトルだけ読んで前時代的な習慣がなくなったのだと言っている人がいた。記事の内容まで読んで「上の子が下の子の面倒を見る習慣がなくなり、力関係がわからなくなったんだろうな」と軽く考えた。だがちょっと調べてみるともっと複雑な事情があるようだ。宝塚は実は大相撲と似たような環境になっている。




まず朝日新聞の記事をおさらいする。問題になったのは下級生が上級生に提出する提出物のようである。反省文が「長ければいい」という不文律になっていて、長い文章を書きすぎて身体を壊す人が出たと書かれている。5年ほど前から始まったのだという。指導の体裁でいじめが起こっていたことになる。

この背景にはおそらく生意気な下級生を封じ込めるためには理不尽な規則を押し付けて疲弊させてしまえばいいという発想があるのだろう。これを彼女たちが自律的に見つけたとは思いにくいので、そもそも宝塚音楽学校に入るということがそういうことなのかもしれない。お稽古に忙しく他のことを考えたり逃げ出したりすることができなくなってしまうのである。

最近の子供は下のものの面倒を見たことがないから「指導」の意味がわからなくなったのだろうとも思った。昔なら弟・妹や近所の子供の面倒を見ることが当たり前だったのでそれとなくリーダーシップを発揮する場面もあった。そういう経験がなくなると「ノートに反省文を書かせる」というような普通では考えられない指導法が生まれる。原初体験がなくなったためにマネジメントの基礎知識が失われてしまっているのである。

農村で「下の立場だった」下級将校が戦地で少数チームのマネージメントを任されて暴力や執拗ないじめに走る下士官の二等兵いじめに似ている。下士官はチームマネジメントを学ばないまま現場に送り出されるので指導と支配を混同してしまうのである。

おそらく、これは企業に対しても言えるだろうと思う。新入社員が自然と誰かの面倒を見られるようになると期待してはいけない。個人主義を育てないままに個人化が進んでいるのだから、集団生活を学ばせるか個人主義でどう相手を指導するのかということを最初から教えなければならない。

記事からはノートを廃止しただけでは過剰な上級生に対する崇拝のような行動様式が捨てられなかったことがわかる。結局「上級生に自発的な指導はさせない」とする以外に指導に偽装したいじめをなくすことはできなかったのだろう。

これを読んで大相撲のことを思い出した。こちらも「かわいがり」といういじめがなくせなかった。相撲という閉鎖空間でいじめと指導の違いがわからなくなっていったという事情があるのだが、結局のところ協会でルールを作って全ての暴力を禁止しなければ問題は解決できなかった。相撲協会では殺人事件までが起こり、味がわからなくなり人生がめちゃくちゃになった人もいる。

同じように宝塚でも集団マネジメントの基礎がわからなくなっているのだろう。ただ宝塚は会社組織なので上からのマネジメントが効いた。これが力士がマネジメントをする大相撲とは違っている。第三者がリスク管理ができたことになる。

では、宝塚の問題はいつ頃生まれたのだろうか。

宝塚音楽学校には別の問題もあったようである。2008年の入学生「宝塚歌劇団96期生」の間でいじめが起きたという。改めて読み返して見たのだがいじめのターゲットになった生徒がなぜいじめられていたのかはわからない。匿名掲示板のようなところには注目を集めたことに対するやっかみがあったと書かれている。ある法要で地元のテレビに出たことがやっかまれたそうである。どういうわけか目をつけら得た彼女の部屋からは盗品が次々と見つかり退学に追い込まれてしまったそうだ。

大相撲が暴力に頼ったのとは違い、女性の暴力は集団で理不尽なルールを作って一人に押し付けたり仲間はずれにするというような陰湿な経緯を辿るようである。女性は退学処分は取り消されたのだが和解の際に「歌劇団には入らない」という条件をつけられたそうだ。歌劇団側が歌い手たちの自律的な人間関係に関与できなくなっていたことがわかる。いったん諍いが起きた以上もうその人を輪に加えることはできなかったのである。

大相撲の件も宝塚の件も「人生経験を積まないままで過激な競争に晒された人たち」がどう暴走するのかという好例になっている。その意味では旧日本陸軍と同じいじめに発展するのは当たり前だ。日本は失敗を許さないやり直せない国になっている。逃げ出せないから誰かをいじめて憂さを晴らす。その圧力は凄まじい。人生を破壊される人が出てくる。

ただ、その出方はかなり異なっている。男性と女性に対する社会の要請が違うからだろう。男性が暴力を「相手の成長のためにやった」と偽って個人を追い詰めて行くのに比べ、女性は緻密なルールを作って一人を追い詰めて行く。どちらも正義感を偽装して個人の鬱憤を晴らすのだがその手段は、男性は「成長」であり女性は「規律」なのだ。

このいじめ事件と今回のルール変更は時期が異なっている。最初のいじめ事件が起きたのはもう12年前だが今回問題になったのは5年前の事件だそうである。つまり宝塚では閉鎖的な文化が温存されていてそれを外側から修正できなかったことがわかる。おそらくいじめはもっと前からあり、最終的に裁判まで発展したのだろう。だが構造を変えることはできず、これまでは問題なくできていた「自発的な指導」そのものをやめるしか止める方法はなかったのだ。

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“宝塚で不文律が廃止される – 自律的なマネジメントができなくなった日本人” への1件の返信

  1. 日本の教育システムが
    精神論や個人的経験で
    語られるのが何ら疑問に
    思われない。

    旧日本軍のイジメも下級士官は
    イジメイジメラレを肯定した
    記述が多いのも特徴的、
    兵下士官は殆ど地獄としか
    思ってないのと対照的。

    軍隊内の教育も海外は
    論理的かつ具体的で
    マニュアル式で私情を
    排除してる。
    (米軍は数百ページの
    マニュアルすら一部公開してる)
    自衛隊がいまだ精神論を
    叩き込むのだから
    ある意味旧日本軍と変わらない。
    (さすがにパイロットや
    特別な知識技術は違うが)
    考えないのが日本人に
    なってしまった。

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