竹内結子さんの逝去報道について考える

竹内結子さんがなくなった。自殺だと考えられているようである。報道の仕方が抑止的になったのが印象的だ。国民的大女優なので自宅に人が押し寄せても良さそうだが一切それは報道されなかった。遺族は「表の人」なのでインタビューぜめになっていてもおかしくなかったがそれもなかった。日本のジャーナリズムも成熟したのかなと一瞬思った。だが何かがおかしい。




テレビはそれほどこの問題を取り上げなかった。住んでいるところにマスコミが押しかけるのは変わらなかったそうなので、単に報道しなかっただけのようだ。その代わりに「これだけ中で議論をしました」というような内輪の話をしていた。多くのテレビ局が厚生労働省が出したWHOのガイドラインを遵守するようになったらしい。つまり「この正解にしたがって粛々とやっていますよ」ということを強調するようになったのである。SNSがマスコミに代わる権力になったという言い方ができるのかもしれない。

この報道姿勢を考える上で重要な事実がある。新型コロナの影響で自殺者が増えているらしい。前年同月比で15%以上という数字も読んだ。つまり竹内さんの件はこの一貫であり、我々の社会が現実に抱える困窮を考えるなかで扱われてもおかしくなかった。芸能人といえども一人の人間であり抱えている問題も我々と一緒である。

自殺者が増えるのはおそらく何かが起きた時ではなく再び動き出した時だ。新型コロナで自粛が始まると人々は落ち込むのだが「ここで潰れてはいけない」と防衛的な心理状態になる。台風が来た時に人々が一時的に元気になるのに似ている。「雪が降りそうだ」というだけでなぜかワクワクするように感じられるのは危機対応なのだそうだ。人間はこうやって危機を乗り切るようにプログラミングされているのである。

ところがこの一時的な興奮状態が収まりふと冷静になったところに本物の危機が訪れる。竹内さんの場合は産休という特殊な事情があり新しく仕事を始めたばかりの時期の悲劇だったと考えられているようである。動き出した時に問題は起こるのである。それは竹内さんだけでなく多くの人にとって言えることである。9月の新学期の前が一番危ないと言われるのに似ている。「9月1日問題」と言われているそうだ。

さらに自殺する芸能人にはある種の特徴もあるようだ。生育環境の影響で「芸能界で生きてゆく意外に道がない」と過剰適応するケースが散見される。生育時の肯定感を得られず仕事に適応した人が「条件付きでないと愛されないのだ」と感じる空虚さというのは経済的困窮とはまた違った心理状態だと思う。だがこれが分析されることもなかった。

ガイドラインに「適切な援助につなげ」と書いてあるので識者もそのような表現をしていた。問題は扱い方である。

かつてあった地縁社会には「自殺を試みるような人もいる」という常識があったはずである。だから地域社会にはそれなりの解決策なり慰め方があった。ガイドラインの中に「自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと」という一説がある。確かにそうなのかなと思うのだが人生の中で生きる意味が見出せなくなるのは意外とありふれたことだ。これは中年の危機と呼ばれる。40才というのはもともとそういう時期である。だがそれも語られなくなった。あるいは誰でも一度は経験している程度のことなのかもしれないのだ。

コロナ鬱はコミュニケーションの不足からくるのだからSNSなどを使ってつながりを保つような努力をしたほうがいいというアドバイスもよく聞かれる。これは基本的な自己肯定感を持った人たちの考えそうな常識だがおそらく万人には当てはまらない。

芸能人の自殺を見ているともともと空虚な精神状態の人が「無理やりスイッチを入れ続けている」うちに問題を起こすことがあるということがわかる。コロナや産休などで孤独になったとき「それが本来の自分なのだ」ということに気がつく。それを無理やりに中断させらることに耐えられなくなってしまうわけである。つまり「人のつながりが自殺から人々を救う」というのもおそらくは単なる幻想である。原因になった生育歴(家庭環境)を問題にしたくなるが「もう起きてしまったこと」を考えても仕方ない。単にコミュニケーションが人を危機的な状況に導く可能性があることを知ればいいだけの話だ。だが、自己肯定感の高い人はそれに気がつけない。

とにかく人の精神状態は非常に込み入っていてむずかしい。日本社会はこうした諸問題を隠蔽して国家に丸投げしてきたためこ自分たちで扱えなくなっている。おそらく「自分が当事者として相談された時」にどうしていいかわからないという人が多いのではないかと思うが、死にたいと思うような困窮を見たことがないのだからどう処理していいかなどわかるはずはない。

相談する方も親しい人には相談はできないだろう。自分がどんな厄介ごとを他人に「押し付けようとしているのか」ということになってしまう。

もちろん国も何も対策を打っていないわけではない。最近では窓口が充実していてLINEなどでも相談ができるようだ。国が一人ひとりを訪れて「心に悩みを抱えていませんか」などと聞くことはできないのだからこれが限界なのだろう。あとは我々が考える必要があるわけで、最初の一歩はこれをタブーにしないことである。タブーにしないためにはまず野次馬根性的な覗き見主義のジャーナリズムをやめさせる必要がある。

芸能人の自殺報道は「今までテレビで活躍していた人たちがなぜ」という野次馬的な関心に支えられてきた。竹内さんの場合歌舞伎の家と結婚したが長男を歌舞伎の伝統と切り離して育てており、新しい配偶者との間の子供もいるという複雑さがある。おそらくこうした関心から無縁でいることはできないだろう。これはありのままに伝えればいいと思う。大げさな音楽をつけたり変に表情をつけたコメンテータにしたり顔で語らせなければいいだけの話である。

今回、私たちが根本に持っている卑しい野次馬根性は温存され極端から極端に振り子が触れたようである。だが「語らないこと」にも弊害はあると思う。いざ自分たちが当事者になった時にどうしていいかわからなくなってしまうからである。

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