フランスの教師惨殺 – 再び新しい戦前への第一歩

再び新しい戦前が来ているのではと思った。といっても日本の話ではなくフランスの話である。フランスである教師が惨殺された。頭を切り離されて抱えていたという報道がある。殺したのはチェチェン出身のイスラム教徒だそうだ。お金につられて先導した人もいるらしい。平和な学校で起きた恐ろしいテロであるとしてフランスでは大騒ぎになっている。




殺された人の事情はよくわかっていない。日本では中学校の先生だというように伝えられている。フランス語の記事だと大学教授と書かれているものがあるのだが、今回の事件のきっかけは中学校の公民の授業で表現の自由を教えたことにあるようだ。その時にシャルリ・エブドがムハンマドを屈辱して襲撃された事件を題材にしたという。これが恨みを買った。

この公民の授業の時にこれを見たくないイスラム教徒は退室してもいいといわれたそうである。つまり先生としては一定の配慮をしたことになる。

この一連の情報だけをとると「テロはいけないことであり表現の自由は守られるべきである」と考える人が多いのではないかと思う。先生は一定の配慮をしたし、とにかくいい先生という評判だったのである。

ところがどんな話にも両面がある。「イスラム教徒の側から考えてみるとどうだろう」とつい思ってしまったのだ。

彼らはフランスは自由で平等な国であるという理想に惹かれてフランスにやってくるのだがおそらく低賃金の仕事に張り付いているはずだ。フランスにはフランスのやり方があり母国の文化を持ち込むことは許されない。例えば女性が顔を覆うのもフランスでは禁止である。

表現の自由は大切だがそれはゲストであるイスラム教徒には当てはまらない。つまり彼らはフランスという文化を受け入れるまで二流のゲスト扱いされ続ける。宗教を捨てても名前や顔貌でも差別されるかもしれない。マイノリティというのはそういうものだろう。それが数世代続くのである。

一方、フランス人の側にも彼らの伝統的な価値観がある。表現の自由と政府への抵抗は彼らの新しい伝統になっている。これがイスラム教によって侵食されることには不安を感じているはずである。イスラム系移民が担ってきた仕事に転落することを恐れているマジョリティもいるかもしれない。彼らは本当に民主主義を守りたいのかそれとも民主主義の名の下に自分たちの優位性を守りたいのかが実はよくわからない。これが民主主義の危ういところである。

背景には混乱する政治状況もある。

フランスではマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線に根強い人気がある。また6月末に行われた地方選挙では環境派が躍進したそうだ。政治が二極化する中で既存政党は有権者をつなぎとめておかなければならない。

マクロン大統領は新しい首相のもとでの巻き返しを図っている。新型コロナで大きな役割を担った高級官僚出身のカスティックスを新しい首相に任命した。

カスティック首相は新型コロナからの段階的な経済再開に大きな役割を果たした。日本でいうと西村経済再生担当大臣のような存在である。大統領への支持率はこの内閣改造とマクロン大統領がEUからの経済支援を取り付けたことで回復したそうである。

このカスティック首相が印象的なツイートをしている。

「我々はフランスだ」と言っていて「あなたたち」に対峙するという構図になっている。もちろんあなたたちはイスラム系のテロリストである。こうなるとイスラム教原理主義という大きなものがフランスを攻撃しているという図式ができあがる。むしろそのような図式を作りたいのかもしれない。マクロン大統領もイラクの首相と会談しテロとの戦いを前面に打ち出した。

大統領も首相も「民主主義を守るために戦う正義の政治家」と言うメッセージを前面に押し出している。一部のイスラム教徒を敵認定して結束を図っているように見えてしまうのである。

おそらくフランスは新型コロナの影響もありかなり苛立っているのだろう。その前からイスラム系の経済移民が社会に入り込んでおり「自分たちの社会が壊されてしまうのではないか」という怯えも感じているかもしれない。社会的には許容できないが経済的な依存は進んでゆく。自分たちの社会の理想から移民を追い出すこともできない。

フランスが表現の自由を守れというスローガンのもと実はイスラム系の少数派を差別しているのではないかという疑念がどうしても払拭できない。このために用いられるのが道徳である。「あの先生は穏やかでいい先生だった」と語られ「私が先生である」という連帯が表明される。そのためには多少の荒っぽいことも許されるとして権力はどんどん道を踏み外してゆく。おそらくフランスはその第一歩を歩み始めている。

成長を失った資本主義社会が民主主義を正当化させるためには敵が必要なのだ。イスラム原理主義はそのために利用されようとしている。教師の首が切り離されたと言う事件はとてもわかりやすかった。人々の心に強い恐怖心を植え付けるからである。

フランスのこの反イスラムの動きがどのように展開するのかはわからない。だが社会が一斉に誰かを敵視し「社会を壊すのだ」と認定したと言うこと自体は混乱したドイツがユダヤ人と共産主義者を敵視したのに似ている。フランスの状況が第二次世界大戦前のドイツのように急速に悪化することはないのだろうが、おそらく一旦生じた分断を解消するのは容易ではないだろうし、分断によってまとまったものはやがてより強い敵を必要とするようになるだろう。

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“フランスの教師惨殺 – 再び新しい戦前への第一歩” への1件の返信

  1. 王政時代のフランスではユダヤ人は国民としての地位を持っていませんでした。国民として認知されていたのは、カトリックであるフランス王の臣下、つまりはカトリック信者のみでした。(プロテスタントは微妙な立場でした。)
    フランス革命により、ユダヤ人はフランス国民としての地位を獲得したので、王政派ではなく共和主義者になります。つまり、共和国の理念に賛同している人達です。従って、ユダヤ人は共和国の枠組みの中に置いて平等に扱われる権利があります。
    しかし、イスラム教徒は非宗教的な共和国という理念には原理的に賛同出来ません。おまけに、異教徒と敵対することが教義でもあります。従って、フランス政府やフランス国民がイスラム教徒を敵視しているのではありません。共和国への敵対行動をするイスラム教徒に対処しているだけです。なので、敵対的な行動を取らない限り平等に国民として扱われます。
    その一方でイスラム教徒が差別されているという現実もあります。しかし、それは黒人や東洋系も同じです。単に移民だからです。しかも、いわゆるフランス人ではないと、常識が通じないのではないか?というリスクがある以上は、フランス人と同じには民間では扱われにくいです。その代わり、フランス人の常識が通じる、同化(assimilation)していることを理解してもらえば、基本的に問題はありません。
    フランスという(西洋)文明の社会に参加するには、文明に同化する必要があると言うごく当たり前のことですね。ジョゼフィンベーカーが、「私は役の上では野蛮人をたくさん演じて来たけれど、実生活では出来る限り文明的でありたい。」と言ったのはそういうことです。

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