排除か包摂か – カトリック教会で同性愛を認める動き

カトリック教会のトップである教皇フランシスコが同性愛を認める方向に一歩を踏み出した。おそらく日本では大したニュースにはならないのだろうがCNNの英語版ではかなり関心を集めているようである。包摂の動きにも見えるのだが逆に排除の可能性もあるのだろうなと思った。一貫した態度を持とうとすると却って迷いが生じるという典型的な事例である。興味深いのはこれに日本の当事者がどう対応するのかと言う点である。




まず教皇フランスシコの主張を見てゆこう。教皇フランシスコはシビルユニオンという制度を提案している。同性愛者も家族の中には入れたい。だが結婚制度に入れるのは抵抗がある。だから別の制度を作ろうと言っている。多人種は認めるが強制はしないという人種隔離政策(アパルトヘイト)に似た側面があるのだ。

ただ、フランシスコ教皇はこれまで一貫して婚姻は男女間に限定されるべきだとし、同性婚には反対している。

ローマ教皇、同性間のシビルユニオン支持を表明

この制度が一般化すると同性愛者のうちパートナーが欲しい人は法的に守られることになるだろう。CNNはこうすることによって同性愛者は法的に守られるようになるという教皇の発言を伝える。西洋で同性愛が忌避されるのは「キリスト教で不道徳だ」とみなされているからなので教会の名前のもとで同性愛を差別することはなくなるだろう。

つまり、このニュースはどう捉えるかによって排除にも見えるし包摂にも見えるのである。アメリカではすでにシビル・ユニオンが導入された歴史があるそうだがリベラルは不十分であるといい保守は同性愛を認めるのはけしからんと言う議論になったそうである。人種隔離政策も黒人を許容するといいつつ劣悪な環境に閉じ込めているだけの政策だった。結局、内心から差別がなくならないと法制度をどう整えようがあまり意味のある改革にはならない。

最近の教師惨殺事件でも「フランスの表現の自由」を守るためにはイスラム教徒の規範は必ずしも保持されるべきではないと考える人が多いようだ。マクロン大統領は風刺画の自由は擁護すると言っている。つまり見たくないイスラム教徒は出てゆけと言うことである。

おそらく中東から押し寄せる移民たちが自分たちの伝統的な社会を破壊しようとしているという恐怖心を持っている人が大勢いるのだろう。マクロン大統領はイスラム教を屈辱することも表現の自由であると宣言したようにもみえる。そして「普通のフランス人」はこれに賛成している。

差別と道徳心は表裏一体のところがある。フランスは表現の自由を守る国であると考えるのと同時に自分たちの社会的優位も守りたいと考える。

シビル・ユニオンの問題も当然新しい差別の温床になる可能性はある。結局のところどう運用するのか、どう社会に訴えかけるのかで成否が決まってしまうのである。そこで重要なのは実は当事者たちの意思だ。

もちろん、差別は予想されるが、まずは最初の一歩として社会に存在を認めさせたいと考える人も出てくるだろう。何も保護されないよりもなんらかの制度があった方が安心だからである。つまり同性愛当事者の中にもおそらくこのシビルユニオンに賛同する人が出てくるはずなのだ。

そう考えてみると、実はこの問題は当事者たちに新たらしい選択肢を突きつけている。別に結婚制度の他にパートナーシップ制度を作るからそっちに移ってくれと言われた人たちがどう受け取るのかという問題である。あるいは「永久に結婚制度から排除された」と感じる人が出てくるのかもしれない。実利をとるのか、それとも完全に異性愛者と同じ枠で扱ってほしいということなのか選ばなければならない。

アメリカのようにとにかく個人が意見を持つべきだとされている社会に育って入れば意思表明はたやすくできるのだろうが、日本は同調型社会である。おそらく多くの同性愛者が「人にさえ言わなければとやかく言われることはない」と考えて生きているのではないかと思う。その人たちに「社会に出て来てどちらかを選択せよ」とか「当事者は全てアクティビスト(活動家)になれ」と迫っているわけで、この結婚かシビル・ユニオンかという問題自体が当事者たちを揺るがす可能性があるのかもしれないと思う。

どんな人権問題にも同じことが言えると思うのだが、新しい提案は当事者たちに新しい意思決定を迫ることになる。それによって救われる人もいるだろうが、居心地が悪く感じると言う人も出てくるのだろうなあと感じた。

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