渡部建の謝罪とテレビの中の身分制度

アンジャッシュの渡部建さんが謝罪会見をしたそうだ。正直興味が持てなかった。一応ワイドショーの後追いを見たのだが特に何かを感じさせる要素はなかった。結局のところは夫婦の問題に過ぎないので今になって考えてみればなぜあんなに叩かれたのかよくわからない。ただ、「テレビの時代」が終わったことはよくわかる。




最初は渡部さんの会見を見ると「日本の中にある身分制度」が見えてくると思った。日本社会で民主主義が成り立たない理由の考察に使えると思ったのだ。だが、どうもうまくゆかない。身分制度が成り立つ要件を欠いているからである。身分制度が成り立つためには閉鎖された村が必要なのである。

スキャンダルが出る前の渡部建さんはご意見番の立場だった。つまり指導者層という身分が与えられていた。だが指導者層でいるためには高潔であることが求められる。その高潔さを決めるのは法律ではなく人々の間になんとなくある「道徳」だ。渡部さんはここに触れた。

この道徳規律違反の渡部建さんがテレビ村に戻るためには視聴者の許しが必要だ。ここから日本の村における地位が相互監視と合意によって保障されていることがわかる。これが成り立つのも村が狭い共同体だからである。常に監視ができるから監視する。

テレビではなぜかそれを代表するのが芸能記者ということになっている。だから渡部さんは芸能記者に頭を下げる必要があった。

ところがこれが成り立たなくなっている。テレビをやめてYouTubeに移る人もでてきた。何よりこうした報道を外から眺める人も出てきた。ネットでは「これはいじめなのではないか」という声も多かったそうだ。つまり、芸能は「テレビ村」ではなくなりしたがって身分制度も揺らいでいる。

渡部さんの会見はおそらくダウンタウンのガキの使いやあらへんで!大晦日年越しスペシャル!』の番宣の役割を果たしているのだろう。ガキ使では「いじられるクラス」の役割が与えられるはずである。またそこからやり直しだが10年ほど経てばまた違った役割が与えられるのかもしれない。テレビには依然身分制度がある。だがおそらくこれも徐々に消えてゆくのではないだろうか。

日本は法律ではなくなんとなく空気で決まる道徳に支配される国である。新型コロナ対策ではそのことが浮き彫りになった。責任を取りたくない政府が何も決めてくれない中で新型コロナ対策で重要な役割を果たしたのもこの道徳だった。相互監視の網が張り巡らされていて「マスクをしないで外を出歩いてはいけない」といった自粛警察が横行している。みんなこの相互監視制度の中で通勤・通学しなければならないのだから自粛警察に従う必要がある。人々がマスクをする理由は自己の防衛と他人の目に寄るところが大きい。

その意味では日本は最初から民主主義国ではない。不文律である道徳が支配する巨大な村である。

ところが今回の報道を見てわかるようにそうした村は崩れつつある。崩れつつあるのだが村の掟のような不文律依存はなくならないs、芸能リポーターの意識もかわららない。村からは脱却つつあるがその次の統治システムが見つけられないのが今の日本なのだ。

いずれにせよ、芸能ニュースはテレビではニーズを失いつつある。和田アキ子でさえ日曜日に時事ニュースを扱わなければならない時代である。それほど現代のワイドショーでは時事政治ネタが多く扱われるようになった。家事の合間にテレビを見ながら芸能人の噂話を鑑賞する専業主婦はもうそれほど多くない。先の見えたサラリーマンはスポーツ紙で「芸能人がテレビに復帰できない」という記事を読みながら「退屈な毎日でもこっちの方がマシなのだ」などと思っているかもしれないが、これもおそらく高齢化の波に飲まれて消えてゆくだろう。スマホに取って代わられてしまう。

だ多くの人が暮らしの先行きに不安を抱えており「芸能人の不倫どころではない」のである。芸能から時事政治にシフトしたテレビ局はこれに気が付いているが芸能レポーターはそれに気が付いていない。だから、実際に鑑賞されて批判の対象になったのは渡部建さんではなく芸能リポーターの方だったのだ。

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