心情的に政治を語ることしかできない日本人

SNSで政治議論を見ることが増えたのだが問題が解決するのを見たことがない。これまで「これはなぜだろうか」と漠然と考えてきたのだがある日「正解がわかった」と感じた。最初に書いてしまうと日本人はSNSで政治議論はしないほうがいいと思う。単に時間の無駄だからである。




日本人の政治議論を見ているとある共通点に気がつく。最初に「あるポジション」ができていると議論によってそれが変わることはない。

例えば安倍・トランプにはこういうポジションがある。

  1. 安倍総理支持でトランプ大統領を支持している人たち:エスタブリッシュメントに敵意を持っていて政治的リーダーがそれを打ち負かしてくれると信じている。陰謀論を信じる人も多い。
  2. 安倍総理不支持でトランプ大統領を支持している人たち:権威やマスメディアに敵意を持っている。こちらも1と同じように陰謀論にハマることがある。
  3. 安倍総理支持だがトランプ大統領についてはなんとも思っていない人たち:単に現状維持欲求が強い。日本の政治ではマジョリティでおそらく陰謀論には興味がない。
  4. 安倍総理不支持でトランプ大統領が嫌いな人たち:政治権力に敵意を持っているようだが陰謀論には興味がない。

論理的なバックグラウンドがあればどこかに集約しそうなものなのだがそうはならない。特に1と2が極めて区別しにくく2と3もよくわからない。その理由をあれこれ考えていたのだが全く思い浮かばなかった。

「ある心情を持ってしまうとそれが持続するのだ」と再解釈したところ整理ができそうだった。つまり最初のポジションは偶然によって作られる。そして思い込みが情報を遮断するのでポジションが変わらない。そのうちそのポジションが自分の中核的信念だと思い込んでしまうのだがポジションは思い込みなのでそれ自体には実はなんの情報もないのである。

この現象をエコーチェンバーで説明する人がいる。確かに似ているのだがアメリカのそれとは異なる。話を聞いても「誰かがそう言っていた」とか「そういうYouTubeを見た」というばかりで本人の考えが全く見えてこない。最初は自信がないからではと思っていたのだが実はイデオロギーがないのかもしれない。すると単に自分の心象を防衛しまた誰かの心象を否定するためだけに政治議論をしていることになる。つまり単なる心理的な自己防衛なのだ。

さらに「政治的な新聞ネタを質問しても分析的な解説がつくことはない」ということに気がついた。確率的に少ないわけではない。法曹の専門家を除いてほぼ「全くない」。新聞記事を引用する人すらいない。代わりに印象を語る人たちは多い。「やはり」という言葉を使った印象論ばかりがつくのである。明示的に分析してくれと書いた質問にはそもそも回答がつかない。

日本人にとっての政治議論は問題解決や科学論評ではなく「随筆」だ。随筆なので細かな矛盾点は心象風景に合わせて再解釈される。個人の意見を徹底的に排除し社会的な自由度が少ない日本人に許されたのは心象解釈だけなのかもしれない。

例えばトランプ大統領は日本に対してずいぶんむちゃな要求を繰り返してきた。だがアメリカに依存したい人たちは「外交の天才である安倍総理が個人的な信頼関係を基礎にトランプ大統領を操縦しており、最終的に日本は守られるている」という神風論を振りかざす。

大丈夫だと思っているわけではなく大丈夫だと思いたいわけだ。思い込みだからこそ強固なのだが菅政権になってこの解釈を振りかざす人は減った。もう自己防衛手段としては意味がないからだろう。

正面から否定すると猛烈に攻撃されるが、カウンセリングするように話を聞いて行くとだんだん打ち解けてくる。同時に細かいところに矛盾が出てくる。すると「個人的な意見である」とか「どこかで読んだことがある気がする」などと言い出し最終的には「私は政治には詳しくないのですが」と留保をつけて逃げてしまう。まるで恍惚状態に陥った人が曖昧な記憶をまさぐってゆくようになることが多い。

もちろん中には論理的に政治を語る人がいる。だが例外なく外国人か外国暮らしの経験がある日本人だ。つまりバイリンガル以上の人たちなのだ。日本で暮らしている限り分析的な能力は必要にならない。

考えて見ると、日本の国語教育は随筆の解釈ベースで進む。読書感想文は論理的解釈ではなく「主人公の気持ちを考えて見ましょう」というような心情解釈が主である。算数では論理解釈をするのだから小学生に論理解釈ができないということはないはずだ。だがそれでも論理解釈はしない。

ここまで考えてきても「日本人は論理的に政治を見るよう訓練すべきだ」とは思えなかった。こう主張すると賛成してくれる人はいるだろうが、恐らくそれも心情的な理解にとどまるだろう。「そうである方がかっこいい」とか「世界水準のような気がする」というように思われるだけなのだろう。それよりも心情的に訴えるメッセージを流した方が簡単である。

もちろん、心情的なメッセージは問題解決には役に立たないからこの先不安を感じる人は増えるだろうなとは思う。政治主導は「心情主導の政治」になったということなのだろうが、心情で意思決定はできない。だから、論理的に考えると日本の政治は政治家がハンドリングを諦めるまでは何も決められず漂流することになるはずである。

恐らく日本の政治はそれを見越していて官僚と官僚出身の政治家が論理的な構成を考えてそれを心情的に政治家に説明してきたのだろう。だが当分それは期待できそうにない。

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