なぜリベラルは感染症法の罰則規定導入にすなおにノーと言えないのか?

感染症法の罰則規定導入に関して反対の意見を書いたところ閲覧数が上がった。この規定はよくないということがわかっている人は多いが、その気持ちを言語化しにくかったのだろう。これに対して当事者である医師たちはおそらく「再び加害者にさせられる」という正しい当事者意識を持ち反対している。彼らは具体的に患者を閉じ込めてしまう側に加担させられることを恐れているわけである。




そもそもなぜこの罰則規定は人々の心をモヤモヤさせるのだろうか。それは政府に協調性を見出せないからだろう。一致団結して乗り切るべき側面でなぜ罰金による脅しを使うのか?という感覚である。これは直感的におそらく正しいし道徳的にも間違っていない感覚だと思う。

ただ、我々が感覚的には不道徳だと考えている罰則規定を合理的に評価することは難しい。ではなぜ難しいのか。

現在読んでいる「社会はなぜ左と右にわかれるのか」によると、政治的判断はケア/危害・自由/抑圧・公正/欺瞞というリベラルと保守が両方好む指標と忠誠/背信・権威/転覆・神聖/堕落という保守のみが好む指標にわかれるそうだ。

感覚的には、これまで情報を隠蔽し過去の憲法解釈を曲げてきた安倍・菅政権が、今回も自分たちの失敗を隠蔽し「安上がりに」新型コロナ対策を進めようとしているというのは明白である。つまり、彼らにはケアの精神がなく万人に対して公正もでもない。これが特にリベラル(つまり左より)の人たちを刺激し続けてきた。確かな証拠は得られないものの感覚的に常にリベラルが持っている警報装置を鳴らし続けてきたのである。特にルールを曲げて嘘をついているという公正要素は大きな反発を生んでいる。

国民に共感心の薄い政府はPCR検査を抑制したがっていて人々の心を動かすには金をばらまかざるを得ないと考えている。「奴らに俺らの金を盗まれるくらいなら燃やしてしまった方がマシである」と考えていてもさほど不思議ではないほど追加支出には冷淡で「支持率が下がる」という彼らにとっての危機が生まれて初めて態度を変えた。計算高さだけが浮き彫りになる。

社会はなぜ左と右にわかれるのか」によると、リベラルは「ケア」と「公正」軸を主に使うが保守は残りの要素も総合的に判断して態度を決めるそうである。

世論調査は軒並み下がり続けている。ついにあの読売新聞でも不支持が支持を上回ったそうだ。これまで朝日新聞や毎日新聞を読むような野党支持者たちを「わがままなあいつら」だと笑ってきたひとたちまでもが当事者意識を感じ始めたことになる。すると彼らは感覚に従ってあっさりと態度を変えてしまうのである。自分の問題と他人の問題では態度が全く異なるが、態度を変えることに対して悩むことはない。

おそらくリベラルは共感と公正の軸だけを使っていてあとは合理性で埋めようとしている。だが情報が不完全なので決められない。ところが保守はそれほど合理性にはこだわらない。だからリベラルの方が悩みを深くしてしまうのかもしれない。

本来、正確な意思決定ができないのは我々が十分合理性がないからだと言いたい。だが、実はそうではないのかもしれない。中途半端な合理性を持っているからこそ迷ってしまうのである。

同時に日本人は非常に強く「内と外」によって判断を変えていることがわかる。自分たちの内側のことに関してはとても合理的に判断ができるのだが「外」のことになると合理性がうまく働かなくなる。ムラ意識から離脱できない日本人の合理的判断力は「当時性のない他人ごと」に関しては限定的にしか働かないということがわかる。

おそらく、政権の保身のために罰則規定を導入して強く臨みたい政府はこの罰則規定の運用を巡って却って混乱することになるだろう。診療機関に補助をせず罰則だけを運用すれば医療機関に恨まれることになる。同じことが飲食店に関しても起こる。支援金は今でもかなり乱暴な扱いをされていて「却って儲かった」人や「これでは足りない」という当事者たちが出ている。彼らが不満を持っているなか罰則強化だけを強めればおそらく相当の恨みを買うこととなるはずだ。

彼らもまた当時性のないできごとにうまく対応しきれていない。

おそらく野党の支持率をあげるのは簡単である。単に「この人は自分たちの側に立っている」と思わせてくれさえすれば支持が得られるはずだ。だが、政権与党を攻撃する姿勢に計算高さだけが目立ってしまう野党の姿勢が我々の道徳メガネにかなうことはない。枝野幸男代表は弁護士出身であり「直ちに影響はない」という言葉だけが記憶に残っている。どうしても計算高さだけが浮き上がり国民の道徳メガネはおそらく直感的に否定的な判断を下してしまうのだろう。

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