福岡県篠栗町のママ友洗脳児童虐待事件

福岡県篠栗町で5歳の男の子がなくなった。胸腺が縮んでいたことから満足にご飯を食べさせてもらえていなかったことが伺えるのだそうだ。今日はこの子が何に殺されたのかを考える。女性の活躍や少子化対策を概念的に考えている人には直視してもらいたい事件である。




福岡県篠栗町は福岡市に隣接しているベッドタウンだ。独自の児童相談所はなく遠く離れた春日市の児童相談所が管轄している。政令指定都市の福岡市は独自で児童相談所機能を持っているので近隣の自治体が取り残される形になっていたようだ。この児童相談所は福岡市の東、西、南を管轄する。福岡市を取り囲む周辺の自治体が一つのエリアとしてあつかわれているのである。

篠栗町が児童相談所が持つべき監視機能を受け持っていたのだが連携が全くできていなかったようだ。児童相談所には(おそらく父方の)親族から相談も寄せられていたようだが、町には伝わっていなかったという。町もこの母親と会えておらずその事情も児童相談所に伝わっていなかった。当然職員たちはやることはやっていた。だが見守り対象となる子供には関心はなかった。

福岡の児童相談所の所長はのちに「自分たちは見守り機能を適切に果たしていた」と弁明している。彼らは自分たちの役割を傍観することだと考えているのだろう。

過去の栗原心愛ちゃんや船戸結愛ちゃんの事件とは共通点がある。支配者がいてその支配にしたがってしまう母親がいる。そして母親は「どういうわけか」子供を支配者に差し出してしまうのである。過去の二例は実父と継父が支配者だったが今回はママ友が支配者になっていたという点で異なっている。これが特異だったのでワイドショーではセンセーショナルに扱われた。

この事件について論評を求めると「子供を見殺しにして飢え死にさせた碇利恵容疑者が母性本能を失った」という人が多い。つまり母親には母性本能が備わっているはずだという認識がある。

だが、もしかすると自分というものが育たなかった人は母親になっても子供を愛したり尊重したりすることはできないのかもしれないと思う。つまり、日本の量産型教育を受けていた人の中には、そもそも自分や我が子を含め人間を大切にするということを学ばなかった人がいるのではないかと思われるのだ。

一方で赤堀恵美子容疑者は支配欲の塊のような存在だった。他人を操ることに喜びを感じていたようである。周囲には嘘の名前を名乗り学校ではモンスターペアレントとして知られていたという。周りの人たちは赤堀容疑者の言っていることが無茶苦茶だということはわかっていたようだ。これが過去の二例と異なっている。父親ではなくママ友という同性の他人が自分を持っていない母親を支配していた。

赤堀容疑者は子供に食事を与えないことで、碇容疑者と罪のない子供に罰を与えている。この罰を与える存在になることで自分の支配者としての欲求を満たしていることがわかる。

碇容疑者は赤堀容疑者の言われるままに嘘の不倫話と裁判の話を信じ込んだ。さらに問題が発覚することを恐れて子供を幼稚園に通わせなくなり「お金は自分が遊びに使っていた」と説明していたようだ。さらに赤堀容疑者に携帯電話を壊すように指示されると「本当は壊したくないのに」壊してしまっていたという。赤堀容疑者は碇容疑者に口止めをし「あなたは母親だから逮捕されても仕方がない」と言い含めていたそうだ。

よく、男女平等の社会を実現しましょうという話を聞く。女性は教えなくても母性を持っているので、女性が女性らしくいられる社会が作られれば自ずと少子化は解決するであろうという楽観論である。このケースではそれが成り立たない。支配するのも女性だし子供を差し出してしまうのも女性だ。男性的な競争社会をそのまま受け入れて養育本能を失ってしまった女性と、その女性に唯々諾々と従ってしまう女性という組み合わせをみると、人間の本能がいかに脆いものかということがよくわかる。

皮肉なことだが、日本のようにゆきすぎた競争社会では男性と同じように女性も支配欲の化け物となる。その意味では男女は平等にできている。

事件の発覚の仕方もショッキングだ。碇容疑者は子供が死んでいることを発見すると病院ではなく赤堀容疑者に助けを求める。最終的に119番通報をかけたのは赤堀容疑者の夫だそうだ。赤堀容疑者の夫が絡んでいなければあるいは隠蔽されていたのかもしれない。それまでの間「他人」がこの閉じた環境に介入することはなかった。これがこの事件のもう一つの狂った点である。家族が密室になることはよくあるが地域社会が密室になっている。

新聞は「児相の森本浩所長は5日取材に応じ「死亡という結果は重く受け止めているが、当時の対応としては適切だった」と主張した。」と伝えている。つまり、大変なことが起こっちゃったけどうちはやることはやってるもんねと開き直っている。

児童相談所は「自分たちの役割は傍観することだ」と言っていることになる。

当然5才の子供には父方の親族もいたわけで児童相談所に相談をしていたそうだ。だがその懸念を児童相談所が町に伝えることはなかった。児童相談所の対応には危機感は感じられない。子供は見守り対象だったそうで「法律で規定されている通り単に見ていた」だけなのだ。おそらくこれが炎上することでもない限り彼らは心を変えないだろう。つまり自分たちの身に危険が及ばなければ全ては他人事ということになってしまう。

我々の社会は個人が自立して自分で考えるように仕向けてこなかった。また社会は子供たちへの関心を持っていない。これは当事者であるべき児童相談所ですら例外ではないようだ。

さらにこの事件を離れて、虐待について考察した文章を読んで見た。同じような論説が繰り返されていて「よくわからない」という印象がある。

日本には子育ては家族の中の出来事であり他人や社会が介入すべきではないという社会的伝統があるようだ。つまり日本社会はそもそも家庭への内政干渉を嫌う。教育も家庭の専権事項だと考えられていて国からの支援は少ない。これが少子高齢化の原意になっている。児童虐待においては、統計がそもそも実態を補足していないという問題があるそうだ。

では、家族は社会の支援と監視なしにまともに子供が育てられるのか。

核家族化が進展し「子供を育てたことがない」というカップルも増えている。家族は密室になっていて男性が支配の対象としてパートナーをいじめるDVも虐待の一つの形としてカウントされているそうだ。

親の側は社会に助けを求めるが相手にしてもらえない人が公的機関を敵視するようになるという記事まであった。その意味では「私たちは適切に対応した」という福岡児相の森本所長も加害者ということになる。

船戸結愛ちゃんのケースでは社会から支配される側にいた継父が自分が支配できる対象としての子供に支配欲を向かわせて「所有物のように」壊してしまったというケースだった。栗原心愛ちゃんのケースはそれが実父だった。今回のケースはママ友という同性の他人が支配者になっている。

「家族」というのはそれほどあてになる入れ物ではない。だから夫婦同姓にして家族という箱さえしっかりしておけば全てが解決するというようなことを言う人はあてにならない。

個人や家族が揺らぐ中その矛盾がもっとも弱い存在に向かったのが今回の事件と言える。その意味では船戸結愛ちゃんや栗原心愛ちゃんを殺した父親も碇翔士郎くんを殺した赤堀容疑者も同じような構造の中にいる。「か弱い存在」である母親も所有物のように子供を差し出したと言う点では加害者だし冷淡な児童相談所もまた加害者だ。

ここから得られる結論はとてもシンプルでとても残酷だ。日本の社会がこの子たちを殺したのだし同じような事件はまた起きるだろう、

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