日本がかろうじて人権を守っているのは中国のおかげ

アメリカが菅政権に「中国をもっと非難するように」と圧力をかけているそうだ。一見中国に対して強硬に見える菅政権だが実は「中国を怒らせたら経済的に不利になるかもしれない」と怯えていて直接の批判は避けてきた。バイデン 政権は「それでは不十分だ」といっている。こうなると東シナ海問題を抱えアメリカの後援なしにやってゆけない日本には選択肢はない。日本はどちらかを選べと言われ、アメリカを選ぶことになる。




この例に限らず日本の政治家が人権に興味がないのは明らかである。二階幹事長が「子供を産まないというのは勝手な考えだ」といったのは2018年のことだが、子供庁検討会議の本部長への内定が噂されていることでこの発言が再度フィーチャーされている。森喜朗さんの一連の女性蔑視発言からもわかるように恒例の自民党の政治家には人権意識はない。そして他人への気配りがない人でないと自民党では上にゆけない。

菅総理は子供庁を目玉政策にしたいのだろう。つまり人権は単なる選挙対策である。日本の政府が人権を前面に出すのはアメリカの機嫌を取りたいときか選挙で女性の票が欲しい時だけだといえる。あとはオリンピックのように利権が絡むビッグイベントを誘致するときには女性をトップに指名して「欧米にお腹を見せて」いる。意識が変わっているわけではないのでときどき「不適切な発言」が表に出る。

だが、この考え方は実は多くの日本人に共有されているのではないかと強く思う。だからこそ自民党は人権に興味がない。

現在日本人のマジョリティメンバーは「大和民族の男性」であろう。これに「保守主義」という属性をつけるともっとマジョリティになる。正確には保守主義ではなく自身の権威を保全したいという考え方である。ある種の序列意識である。

日本式権威主義者は中国や韓国などのアジア蔑視を共産主義・社会主義蔑視と重ね合わせている。そしてこれを日本国内のリベラルに重ね合わせる。彼らは弱者の味方をしているという時点で「弱々しく蔑むべき存在」である。Quoraで観察すると男性だけでなく政治に興味がある女性にも「大きいものが好きで小さいものが嫌い」という人はわりと多い。より大きな社会的メンバーとして「目下の者を睥睨したい」と考える人はありふれているのである。

基本的に「大きいものが好きでみんなと一緒がよく周りにもみんなと一緒を強要したい」という多数派の日本人は、本質的には自由主義・民主主義の基本的な概念である「それぞれの人たちが自分たちの価値観を持ったままで自由に暮らせる」という概念は理解できない。

「決めつけている」と思われそうだが、一年以上政治を扱うスペースを運営してきた経験上、ある程度「正解」を決め打ちして権威主義的に民主主義を語った方がうまくゆく傾向が強い。キリスト教や人権意識を持ち出すとかなり高い確率でクレームが来る。「人権や助け合いは弱いものだ」という認識があり「弱いものに加担すると不利である」という本能が働くようだ。

こういう人たちが国際政治を見るとおかしなことが起こる。日本人の中には最初ミャンマーのクーデターを支持する人が多かった。なかなか不思議な思考過程があり、その思考過程に合わせて簡単に情報を歪めてしまうのだ。

  • 少数で異議を申し立てる労働組合はわがままだ・社会主義は劣っている
  • だから社会党が流れ込こみ弱者の味方をするリベラル政党は劣っている。
  • 彼らが参加するデモは時間の無駄である。
  • 香港の市民のデモというのは市民のわがままに過ぎなかった。
  • おそらくミャンマーの民主化デモも香港と同じような市民のわがままなのだろう。
  • アウンサンスーチーは女性だ。女性は政治的に劣っているから市民派は無知から彼女を支援しているに違いない。西側先進国はアンさんスーチーを甘やかし過ぎた。どうやらアウンサンスーチーは中国の一帯一路にも協力的だったらしい。
  • ミャンマー国民はもっと賢くなって軍とうまくやってゆくべきである。

驚くべきことに、このくらいの連想がほぼ自動的に働き「情報の仕分け」してしまう。ところが、彼らの味方はちょっとずつ変わってゆく。目の前の事象と合わないようである。

  • アメリカが軍部を非難し始めた。日本は有利な立場にいるために強いアメリカについていかなければならない。逆に卑しい中国はミャンマーの軍部をそれほど非難していない。軍を応援すると卑しい中国の味方をすることになるのではないか・
  • ミャンマーの軍隊が市民の頭を狙って銃撃をしている。どうやら国民と融和する気持ちはなさそうだ。国際的非難されるのはわかっているのだからどうやら出口がないようだ。軍は賢くない。

このように戸惑い始めて「情報を整理しよう」とするのだが、だいたい自分の気持ちを開陳したあたりで気が済んでしまうようで、ポエムのような・叙情派エッセイのような印象論を書いて終わりになってしまう。こういう感想文が実際には少なからず送られて来る。

ここで、ポイントになっているのは中国である。権威主義的に民主主義を理解する彼らは中国を蔑視している。

日本人のマジョリティは心の中ではマジョリティ専制のような体制を望んでいる。基本的に多様性が理解できないし多様で豊かな経済圏ができてもそこに参加することはできない。さらにバックグラウンドにあるキリスト教の精神もよくわからない。

その一方で中国を蔑視し「大きくて強いアメリカ合衆国」を信じており、西洋型の自由主義・民主主義という価値観を共有しているというような自意識は大好きなのである。勝ち組に乗った気持ちに浸れるからだ。

ここから逆算して「独裁的な中国のやり方を信奉するなら多様性を受け入れなくても構わないのだが」というような言い方をするとある程度反論を抑えることができる。このやり方でも女性の権利向上のような具体的なアクションに巻き込むところまでは行かない。だが、少なくとも非生産的な反論は減らすことができる。

こうして作られた人権意識は偽物だ。だから「権威主義と中国を利用した説得」は本当の人権主義を理解してもらうためには却って有害な気がする。だが、実際に言論空間をマネージするためにはこれが有効だ。キリスト教の精神を理解させるためにでっかい聖堂を作って人々を驚かすのに似ている。あとはその中の何人かでも本当に理解してくれるのを待つだけである。

日本の政治風土に「人権」がない以上、理想主義的に人権問題を取り上げてきた人たちはこうして一般社会から孤立するか絡め取られるかの二択を迫られるのかもしれない。おそらく立憲民主党や共産党などは前者の孤立の道を選んでいる。公明党は市民相談を受け付けているが権威と結びついて後者を選択しまた別の矛盾を抱える。特に池田大作が訴えてきた憲法第九条問題はこんごさらに厄介になるだろう。

いずれにせよ戦争に負けてアメリカの価値観を受け入れた日本は、アメリカを中心とするアングロサクソン系の国や大陸ヨーロッパとは一つの世界を形成することができそうだ。だが、その世界が一つであり続けるためには巨大な敵が必要である。実態がどうであれ中国がその役割を担いつつあるのは間違いない。

ロシアのラブロフ外相もアメリカは白人差別が横行する国だと罵り始めたようだ。お互いに「あんな国になってはみっともない」というメッセージだけが分断しそうな我々を一つにまとめていることになる。ただしお互いに罵り合っているうちはこれが本物の戦争になることはない。あるいは戦争の代替物が国威発揚のスポーツからSNSで首脳同士がお互いを罵り合うヘイト合戦に変わりつつあるということなのかもしれない。インターネットは世界を一つにしなかった。ただ憎しみと蔑視だけが我々をかろうじてまとめているのである。

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