議論に勝ちたがる「ミニ西村博之くん」への対策方法と議論のルールを知らない日本人

先日、ある回答を書いていて「意外だ」と思った。最近学校では議論を教えるそうなのだが議論のルールは教えていないというのだ。にも関わらず日本人は誰もそれを不思議だとは思っていないようだ。あらためて「ああそうなのか」と思った。

最近学校の議論の時間に「それってあなたの思い込みですよね」と言いたがる人が増えているのだという。西村博之さんというテレビコメンテータの影響だそうだ。質問はこの「ミニひろゆきくん」を黙らせるにはどうしたらいいかというものだった。それについて色々な回答がついていた。読んでいて「ある意外なこと」に気がついた。日本人はディベートの仕方を知らない。そして「知らない」ということをそもそも気にしていない。




学校で教えるアカデミックディベートには形式がある。成績がつく以上「競技」として定型化されている。柔道は取っ組み合いではなくスポーツだからルールがあるといえば理解できない日本人はいないだろう。だが、ディベートになるとこれが理解できなくなるらしい。柔道を世界的スポーツにした嘉納治五郎がいかに偉大な人だったのかがわかる。

そこでミニひろゆきくんがどういう役割を持っているのかを聞いてみることにした。

  • 検証者であればミニひろゆきくんには仮設の立証責任はない。ミニひろゆきくんは「それは思いつきですよね」と言えばいい。
  • 反駁者であればミニひろゆきくんには自説を説得的に展開する必要があるが必ずしも相手の仮説を覆すエビデンスを示す責任までは負わないだろう。
  • 反論者であればミニひろゆきくんは相手の論を否定する証拠を提出しなければならない。

この回答には120以上の高評価がつき2,000回以上も閲覧されてしまった。つまりルールがあるからそれを確認しては?という当たり前のことが驚きを持って迎えられたことになる。書いていたこちらが驚いた。今も高評価がつき続けている。高評価は150以上になり3,000回も閲覧されている。

ここからわかることがある。日本人はアカデミックディベートを物事を理解するための道具とは考えず、議論そのものを勝負だと考えている可能性が高い。つまり何をやっても勝ちさえすればいいと考えているのである。

即座に思い出されるのが安倍総理の「ご飯論法」である。安倍総理のミッションは議論をごまかして無効化することにある。だから証拠を示さないで論点をずらして終わりにする。菅総理に至っては「仮設の話には答えられない」とか「ご指摘には当たらない」とまで言ってしまう。

NHKの日曜討論ではあらかじめ決まった方向に従って意見をすり合わせて安心感を得ることを「議論」と言っている。予定調和とか宣伝だと思いたくないので「議論だ」と言い張っているのだ。おそらく日本人は昔から議論を避けてきた。

こうした予定調和的な議論を面白くないという人もいる。田原総一郎さんはテレビディベートは喧嘩だと思っていてそれを実践してきた。予定調和の議論を崩して「真剣さ」を見た目上に演出したのが朝生だ。だがこれも「政治議論はガチンコの取っ組み合いであるべきだ」という別の誤解を生んだ。

本物の西村博之さんはこうした議論文化不毛の社会に生まれ、テレビという娯楽に対して適切な対応をしているだけだ。多分、テレビで議論をしようというつもりはないのだろう。だが、それを真似するミニひろゆきさんが増殖していて「悪い例」だけをたくさん覚えてしまっているのだ。それを学校教育が無意味に拡散していることになる。なんちゃってディベートでは考える力は身につかない。「言い訳力」が鍛えられるだけである。

勝ち負けにこだわっている限りはこのミニひろゆきくんには対処できない。橋下徹さんの例を見てもわかるが頭がいい人たちは、役割やポジションを巧妙に変えて「とにかく勝っている雰囲気」を作るのがとても上手だ。そして日本人はこの「無敵の人」がとにかく好きなのだ。

アカデミックディベートにおける解決方法は、先生がディベートフォーマットを決めた上で、適切な役割をアサインしそれに従って成績をつけることである。適切な役割が割り当てられていれば相手を否定して勝ち逃げするようなことは起こらない。

だがコメント欄を見ると、どうやら日本の学校はディベートのフォーマットを教えていないようだ。つまり、文部科学省がディベートをやれとは言っているがどうやっていいかわからないので生徒同士に口論をさせて「これは生徒に考えさせる議論なのだ」と思い込んでいることになる。つまり、強くなるために体育の授業で乱闘をさせているようなものだ。だが先生が議論の仕方を知らないのに生徒に教えられるはずもない。

だが、これからは事業で行われる口論をディベートだと信じて相手を論破したがる人たちが増えることが予想される。学校でそういう授業が始まっているからである。

我々が取れる対策は地味だが二つある。

まず基本的なディベートのやり方を勉強することだ。あくまでも問題を解決したり課題を研究することが議論の目的なのであって勝つことが目的というわけではない。大切なのは一人ひとりが持っている仮説をすり合わせたり「疑いながら」精緻化することであって、議論に勝つことではない。議論に勝っても不安がより増したり現実に負けてしまっては全く意味がない。

もう一つの対策は我々自身が競争や勝負に夢中になりすぎないようにすることだろう。

「何が何でも相手を論破したい」と考えてこの文章を最後まで読んだ人はがっかりしているかもしれない。そういう人たちは単に勝ちたいだけなのだからそもそも議論に参加しなくても良い。

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