無限政治責任性と有限政治責任性

先日行われた甘粛省のマラソン大会で大勢の死者が出た。この責任を取る形で現地の共産党責任者の李作璧共産党委員会書記が投身自殺した。これについて中国は不思議な国だと書いたところ、中国の方から誇らしげに「中国の政治家は責任を取る」という投稿が返ってきた。




おそらく中国の人は気がついていないと思うのだが、これはむしろ野蛮なことだ。だが、民主主義を理解していないのだからこう重っ当然なのかもしれない。専制政治の国は政治家に無限責任があるが民主主義国は一定の免責がなされる。免責の仕方は国によって異なっているので「一定の契約になっている以上免責されなければならない」ということだけが共通点であとの細かな工夫はそれぞれの国がやっていることになる。

これが理解できないと「なぜ選挙が大切なのか」とか「なぜ説明責任が重要なのか」ということがわからない。つまり契約は正しい情報に基づいて結ばれるべきだし、契約を結んだ後も進捗を確認しないと本当に契約通りに物事が進んでいるかがわからないからだ。

安倍政権・菅政権はこの点を全く誤解している。民主主義の本筋から見れば「ちょっとおかしな」政権である。

ここでふと疑問に思った。これについて日本人に尋ねてちゃんと整理して回答できる人がいるだろうかと考えたのだ。これだけおかしなことが横行しているのだから、これが正しいと思い込んでいる人が多くなっている可能性がある。結果は控えめに言っても「もうちょっと頑張って欲しい」というものだった。民主主義に免責が必要だということは概ね理解されているのだが、なぜそうなったのかを語れる人はいない。むしろ菅政権に責任をとらせようとしているのか、お前は野党の回し者だなというような回答がついた。

では日本ではどのような仕組みになっているのか

まず憲法の規定から調べてみる。憲法には政治家の有限責任について書いてある項目はない。内閣は議会に対して連帯して責任を負うということになっている。だが議会政治家については免責規定も罰則規定もない。政治家がすべての責任を追わないというのは自明のこととされているようである。

Wikipediaの国家賠償法のエントリーに国家無答責の法理という言葉が出てくる。日本の国家賠償法では、国や地方自治体が責任を負い公務員の個人責任が否定されているだけである。ただ国や地方自治体は公務員に対して責任を追わせることはできる。

かつて国家主権が君主にあったとき君主はなんでもできる代わりに革命が起きれば首をはねられる可能性もあった。つまり無限責任を追っていた。国家主権を手放さなかった元首は概ね追放され責任を手放した元首だけがほぼ生き残った。日本の場合は天皇は唯一の主権者だったが戦争に負けたので政治的権利が剥奪された。代わりに責任を取ってくれる人もいない。

だから例えば新型コロナ政策で明確な失敗があったとしても、それだけを理由に総理大臣や国会議員を訴えることはできない。具体的な損害があって初めて国家賠償が認められるが刑事責任を負わせることができるわけではない。

ただ総理大臣や政権党は国民からの信任が得られなければ政権を手放す必要がある。つまり選挙を通じて責任を取らせるというのが今のやりかたであり、唯一の方法だ。だからこそ選挙は大切ですねという話になる。

世界には色々な見解がある

国家賠償法のWikipediaの説明を読む限りではアメリカ合衆国は国を訴えることは難しい。ところが日本には国家賠償法があり選挙に対する切実さが違うのかもしれないと思える。立派な研究課題になっているようで国際比較について研究をしている人がいた。刑事罰が与えられる国もあるようだし、逆に選挙で政権を握ってしまえば割となんでもできてしまう国もある。

  • 刑法上処罰されることを原則とするドイツ法
  • 裁判の拒絶と職務行為上の重過失を条件とするフランス法
  • 司法免責権を認めているイギリス法とイギリス法の伝統を継受して主権免責の原則を採用するアメリカ法
  • 民事裁判における国家賠償責任を除外して刑事裁判に限定して違法原則を適用する中国法
  • 故意と過失を要件とする日本法と韓国法

有権者は政権交代で政治家に責任を取らせるのが普通だ

それにしても、今の政権は責任を取らなさすぎでは?と思う人もいるのではないだろうか。普通の民主主義国であれば適当に政権交代が起きて過去の問題が総括される。

例えば最近ではこんなことがあった。トランプ政権がアップル社に電話の通話記録の開示を求めていた。これは大統領の方的権限に基づいていて合法だがバイデン政権は「こういうやり方はしない」と方針を転換した。中にNew York Timesの関係者の通話記録が入っていたとされるからである。つまりトランプ政権だけでなくアメリカの政権はメディアを監視していたのである。そして法律上はバイデン政権も合法的にそれが行える。

しかし、民主党はこれをトランプ政権批判に使っている。つまり過去を総括することなく問題があるとみなされた行動をやめることができる。政権交代が起こるからである。

マクロン政権はアフリカに対する関与を弱めようとしているようだ。ルワンダの虐殺に対するフランスの関与を謝罪し、CFAフランに変わるECOという通貨を推進し、サハラ砂漠のサヘル地域から撤退しようとしている。

フランサフリックという本によるとフランスの政治関係者はアフリカの独裁者たちからキックバックを受けていて政界工作などに使っていたようである。おそらく新興勢力勢力としてのマクロン大統領はこれを弱めたいと考えているのではないかと考えられる。

日本で政権交代が行われなくなったのは「政治家と官僚の関係が個人的なつながりによって成り立っている」という理解があるからだろう。つまりこうした個人的な関係がない政党が政権を取ると「今までうまく回っていたものが回らなくなるのでは?」と危機感を募らせてしまうのだ。

民主主義は有限責任によって成り立っているのだから政権交代なしには政党に責任を取らせることができない。また見苦しい自己正当化やゆきすぎた暴力なしに間違いを正すことができる政権交代は極めて安上がりで確実な浄化装置である。

官僚システムがきちんと整備されていないというだけの理由で国民は安心して政権交代を起こすことができないのだなあということがわかる。

警戒心に彩られる日本の縛りあい文化

今回の回答を読む限り日本の政治議論にはおそらく「誰か国家転覆を企む輩が常に揚げ足取りをしているのだろう」という暗黙の猜疑心があるようだ。「菅総理大臣に責任を取らせたいという趣旨なんでしょうか?」という回答がついたことからそれがよくわかる。警戒心のアンテナが常にビンビンに立っているようだ。

だがこの人がなぜ体制を擁護しているのかはよくわからない。おそらく野党が勝てば溜飲を下げることができる人がいるという理解があり「他人のメシウマは阻止しなければ」という縛りあい文化なのではないかと思う。

もともと民主主義への理解が曖昧な上に「体制防衛隊」の人が大勢いる。理論立てて解説ができないのでこういう疑問をぶつけられると「何か魂胆があるのでは?」という気持ちになるのだろう。

このように基礎的なことがわかるとその上に建物を建てて考察を進めることができる。おそらくTwitterに見られる政治批評にはこうした地盤がなくいつまでも感情論から抜け出すことができないのかもしれないなあと思った。あやふやな議論は心配事を増やす。

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