小山田圭吾と鬼畜系

東京オリンピックは呪われたオリンピックになりつつある。特に開幕式は歴史的大惨事と呼べるほど悲惨なものになりそうだ。最初のつまづきは2020年1月に菅野薫さんという電通のクリエイティブディレクタが辞任したところに始まっている。電通の内部事情ということで処理され組織委員会が説明をすることはなかった。この「総括をしない」ことが積もり積もって「天皇がお祝いできない」というオリンピックになった。なぜそんな発表をしたのかと思ったら最新の文春砲だそうだ。最後は週刊誌に「お祝いできないオリンピックなんだってね」とスクープされたということになる。




話を菅野さんに戻す。後任として佐々木宏さんという方が就任する。おそらくこの辺りからおかしくなっていったのだろう。まずMIKIKOさんという人が精神的に追い詰められ5月ごろに「連絡が来なくなった」という形で遠ざけられた。さらになぜか野村萬斎さんらのチームが年末に解散してしまう。おそらく、独裁的な体制が敷かれつつあったのだろうがこれも電通内部のこととされ表沙汰になることはなかった。

佐々木さんは安倍マリオの発案者としても知られている。おそらく政治におもねり自分と意見が違う人には厳しくあたるという権力志向人だったのだろう。これが電通の人選だった。

最終的に佐々木さんは「渡辺直美に豚の格好をさせて見たらどうかな」という稚拙な思いつきをリークされて辞任に追い込まれた。人を人とも思わない姿勢がバッシングされたのだが、この時も組織委員会が総括することはなかった。2021年3月のことだった。

では組織委員会はどうやってこれを収めようとしたのか。おそらく組織委員会は電通がダメなら博報堂をにやらせればいいではないかと思ったのだろう。国際的なスポーツビジネスで活躍する日置さんという人を連れてきたらしい。元博報堂だそうだ。

電通が権力志向ならこちらは対局の人選だ。日本はとにかく意識が遅れたダメな国だ、そんな日本を俺が変えてやるというような人のようだ。総括しないままで極端から極端に触れた。

そんな博報堂チームの人となりがわかるインタビューを見つけた。日刊スポーツが日置貴之さんのインタビューを取っている。「上からで薄っぺらい」印象がある。なぜ組織委員会は広報・PRをつけてこのインタビューを差し止めなかったのかと思うような内容である。

  • ダイバーシティー&インクルージョンがテーマだ。それをすらっと言えないとはスポーツ紙の記者も終わってますね。
  • コンセプトは英語で書いた。世界にわかってもらいたいから英語である。日本語はない。
  • まあ、皆さんは日本人しか読まないメディアかもしれないけど(笑)。僕自身、海外でずっと生活してるので、やっぱりすごく不思議に思うところも日本にはある(笑)

おそらく小山田圭吾さんの件がなければ「薄っぺらい意識高い系だなあ」くらいの印象だった。だが、誰もが障害者いじめという過去があることを知っている小山田圭吾さんを除外しなかった時点で、このある種反逆的なチームの未来は決まっていたのかもしれない。小山田さんが辞任になった時「小山田さんが辞めるなら俺も」と言ってかばった人が複数名いたそうだ。いじめの何が悪い、世間のバッシングと戦うべきだという間違った正義感が共有されていたのかもしれない。

復興が触れられていないという指摘をされた時「省いたつもりはない。たまたま書いてないだけ。演出には復興の観点もあり、1ミリも忘れていない」といっている。1ミリもないとか、1ミクロンもないとか、2万%ないとかいう時、おそらくその人は相手のことを舐めてかかっている。この短い文章から読み取れるのは「日本人に対する蔑視感情」である。実際に蔑視されているのは日刊スポーツだろう。こういう人が「日本を世界に発信」するわけだ。

おそらく電通がダメなら博報堂ということになりであれば国際的に活躍している表書きの立派な方というような人選だったのだろう。だがこのインタビューは日刊スポーツのような「遅れた日本のメディアはこんなレベルの低い質問しかしないのかね?」というような対応になっている。これをそのまま流したところに日刊スポーツの意地があるといっても良いかもしれない。

今回初めて「1990年代に鬼畜系」と呼ばれるジャンルがあったということを知った。もともと小説家や芸術家は既存の規範意識に挑戦していた。例えば三島由紀夫の三島事件や大島渚監督の愛のコリーダ裁判などが有名だ。芸術の世界で食べてゆくという覚悟があり、それが価値観への挑戦につながっていた。1993年には筒井康隆の断筆宣言があった。てんかんの描写とその後の出版社の対応と争って筆を折ったという事件だった。これも「小説家の意識は規範から逸脱している」という意識の現れである。場合によっては生活の糧を捨ててでも信念を通そうとしたわけだ。

バブル時代になるとこうした反抗が単なる「文化人仕草」になってゆく。価値観が大きく揺らぎ「世間への反抗」がそのままメジャーになってしまったからである。小山田圭吾さんはバブル時代に渋谷系と呼ばれる音楽で一世を風靡した方だが日本経済が行き詰まるとこうした文化人仕草を利用して「悪ぶってみせた」ようである。そしてそれを総括しないまま中年になった。

これまで日本社会が細かく総括していなかった点がここにきて一気に噴出している。

元々は電通が人権について軽視しているのに表だけ取り繕っているというだけの問題だった。これがSNSで暴露して大問題になった。だが「表だけ取り繕う」ことに慣れている人たちはこれが総括できなかった。最終的には業者を変えて対応したわけだが今度はあろうことかバブル崩壊前後の矛盾まで発掘してきてしまったことになる。

国民は税金まで支出して過去の清算を強要されている。これについて語る人が軒並み不機嫌になるのはまるでパンドラの箱のように次から次へと問題が出てくるからだろう。国威発揚にこだわればこだわるほど過去の問題に直面させられてしまうのだ。

それにしても日本には徹底的に権威におもねる広告代理店と「反逆している俺って意識が高くてかっこいい」と思っている広告代理店の二つの選択肢しかないのかという気分になる。国内マーケットでいい具合に発酵してしまったようだ。なんともいえない独特の臭気を漂わせているが楽屋裏だけにして欲しかった。

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