総理大臣がおろされる「なんとかおろし」をまとめてみた

なぜそんなことを考えたのかはわからないが「戦後になんとかおろし」が何回あったのかということが気になった。調査方法はいたって簡単だ。総理大臣の名前とおろしをつけて検索した。特に面白かったのは三木おろしと海部おろしだ。未遂に終わった加藤の乱を合わせるとまだ派閥があった時代の「おろし」が改革潰しだったことがわかる。一方、小泉政権以降3回「おろし」があるのだがこれは「表紙を変えて選挙に勝ちたい」というおろしである。つまり意味合いが違うのである。これらを俯瞰することでなぜ今回菅おろしが起こらなかったのかを考えてみたい。




三木おろし(1976年)

最初の総理大臣おろしはロッキード事件の真相解明を求める三木総理大臣をおろす動きだった。三木内閣前夜の田中政権時代は田中派・大平派・福田派が拮抗状態にあった。まず吉田茂時代に大平派の元になる派閥が分離し、さらに佐藤栄作の派閥の主導権争いで田中派と福田派が分離する。この争いが過激化する中で権力の空白が生じたというのが最初の構図である。

ロッキード事件で田中角栄総理が辞任すると後継を決めなければならないのだが拮抗していて決められない。結局中間派である椎名派の領袖の椎名悦三郎が裁定することになり(椎名裁定)三木が次の総理大臣になった。三木派は党内左派であり基盤が弱かった。

田中角栄は角福戦争と呼ばれる暗闘があった福田赳夫に政権を渡すのは絶対に嫌でできれば弱小で「お留守番」にしかならない椎名さんに総理大臣になってもらいたかったものとされているそうだ。田中派は佐藤栄作の派閥が大部分を掌握してできた派閥だ。田中角栄についてゆかなかったのが福田派であった。

一方、大平派は吉田茂の派閥(吉田学校)を佐藤派と分け合う形で作られた池田勇人の派閥が源流になっている。この派閥は宏池会と呼ばれて今でも存続している。

椎名派は岸派にいた川島正次郎という人が「20名くらいいれば大臣ポストが一つくらいもらえる」という理由で結成した小派閥だったという。三木派も党内では左寄りとされる小さな派閥だった。つまり近郊状態にある大きい派閥同士では代表が決められないので誰もがコントロールしやすい小さな派閥から総理大臣が出たのだ。

だが三木内閣はロッキード事件の徹底捜査を争点に解散を行おうとした。これに反発した田中派と大平派が倒閣に乗り出した。三木総理大臣は衆議院解散をチラつかせて対抗するが衆議院解散はできず衆議院選挙敗北の責任をとって辞任することになった。戦後初の任期満了選挙はこのときに行われている。裁定者だった椎名悦三郎は「生んだのは私だが、育てるといった覚えはない」と言い放ったとされている。

このときに大平・福田で密約が交わされ福田赳夫が次の総理大臣になった。つまり大平派と三木総理倒閣で協力したかに見えた田中派は外された。だが、福田赳夫が密約を破り総裁選に出馬しようとしたことから大平派に切り崩され政権をうしなった。

海部おろし(1991年)

つぎのおろしは10年以上経ってから行われた。海部俊樹はもともと三木派(のちに河本派)に所属していた。ロッキード事件の真相解明を目指そうとしていたことからわかるように比較的「きれいな」派閥であり弱小派閥であることからコントロールしやすい派閥であり総裁のはずだった。つまり2回目の「おろし」も同じ派閥からの総理大臣を下ろす動きだった。

リクルート事件で竹下派・安倍派・宮澤派・旧中曽根派が謹慎状態となり中継ぎだった宇野内閣も総理の女性スキャンダルで倒れた。その代替として竹下派が中心となって海部擁立が決まった。前回は、田中・福田・大平の三派閥均衡だったのだが、今回は竹下派が主導権を握りそのほかの派閥がついていったことになる。ちなみに竹下派は田中角栄の派閥から「クーデター同然」で誕生した派閥だったそうだ。

竹下派から橋本龍太郎を候補として出すというアイディアもあったそうだが金丸信は橋本以外の小渕恵三・小沢一郎・奥田敬和・梶山静六・羽田孜・渡部恒三を私邸に招き海部指示で一本化を図ったという。こうした経緯から海部内閣は何かにつけ竹下登・金丸信にお伺いをたてるという傀儡のような内閣だったとされる。

竹下登を立てて田中派からクーデータ同然で独立した経世会だったが竹下登は総理になり派閥を離脱していた。すると今度は金丸信・小沢一郎に乗っ取られるような感じになってしまう。結局金丸信は1992年の東京佐川急便事件の責任を取り辞任した。竹下派と小沢派の対立が決定的になり、小沢一郎は羽田孜と組んで細川護煕内閣設立に動きそのあと羽田孜内閣が生まれるという流れになっている。

リクルート事件を受けて基盤がない中で総理大臣になった海部総理大臣の悲願は政治改革でありその目玉が小選挙区制の導入だった。これは前回の三木総理と似ている。

竹下派の金丸信は海部総理続投を要請。しかし、小選挙区制の導入そのものには党内の反発が根強く総理大臣の意向を無視して小選挙区制導入が「審議日数不足」を流してしまった。野党もこの提案に賛同した。

海部総理はこれに反発し「重大な決意で臨む」と発言した。「これが解散を意味する」ということになり海部おろしが起きた。海部支持だった金丸信も海部から離反した。結局、海部総理は解散に踏み切れずに総裁選の任期満了を待って内閣総辞職し、改革は頓挫してしまった。結局この時に自浄作用を働かせることができなかったことで自民党は政権を失った。

加藤の乱(2000年)

次の「倒閣」の動きは約10年後だがこれは未遂に終わっている。それが加藤の乱だ。加藤の乱は今回の菅・岸田総裁選挙に大きな意味を持つ。実は二人とも加藤派だったのだがその後の対処の仕方がちがっているからだ。

宮澤喜一から宏池会(前身は大平派)を禅譲されていた加藤紘一だったが五人組と呼ばれる派閥の談合で森喜朗内閣ができた。しかし森内閣は不人気だったため加藤は山崎拓と組みマスコミを使った倒閣運動を狙った。評論家に自分の立場を表明し民主党との関係もアピールした。

だがこの倒閣運動は公認権を使った切り崩し工作を受けて倒閣は頓挫した。岸田文雄と菅義偉はこの時加藤支持だった。結局宏池会は加藤派と反加藤派(堀内派)に分裂することになった。岸田文雄は堀内派の流れを汲み親加藤派は谷垣禎一が引き継いだ。菅義偉は宏池会を離脱し以降無派閥となった。

岸田・菅が全面的な戦争を仕掛けないのはおそらくこの時の状況をよく知っているからだろう。岸田文雄は加藤の乱のドタバタを知っていてその後の混乱も経験しているので「おそらく総裁選の権力闘争ではいろいろあるのだろうな」ということはわかっているものと思われる。

安倍おろし(2007年)

安倍新総裁は国民に人気が高かった小泉総理・総裁の後継として指名された。だが、安倍総理のもとで参議院選挙をやると負けてしまうのではないかということになり、青木幹雄・森喜朗・中川秀直の三人が福田総理への乗り換えを画策した。結局安倍総理は参議院選挙で負けてしまったが続投を表明した。党内に批判が広がったが小泉純一郎・麻生太郎は続投支持だったそうだ。このため党内に安倍おろしの声が広がることはなかった。

だが安倍総理は結局続投を表明して所信表明演説を行ったものの代表質問を受けることはなく辞任した。この間に何が起こったのかは不明である。

福田おろし(2008年)

福田おろしは公明党主導で始まったとされている。都議会議員選挙が近く「福田総理では勝てない」ということになったからである。ねじれ国会のため法案を通すためには公明党の協力が必要なのだが公明党は福田総理に懐疑的である。このため追い詰められた福田総理は結局辞任を表明した。この時も何があったのかがよくわからなかったため色々な憶測がとびかった。「あなたとは違うんです」という言葉だけが記憶に残っている。

麻生おろし(2009年)

総理大臣の漢字の読み間違いや閣僚の不祥事が相次ぎ麻生総理への支持は低迷していた。民主党党首が小沢一郎から鳩山由紀夫に変わると民主党が地方選挙で勝ち始める。郵政民営化問題で社長人事問題が起きた。かんぽの宿の売却問題で特別背任に問われた西川善文社長を鳩山邦夫総務大臣がかばい続けたのだ。麻生総理では勝てないということになり両院議員総会を開いて総裁選を前倒ししようということになった。解散に署名をする現役閣僚からも同調者が出たため解散は絶望的になった。

予想通り東京都議選で与党は大敗した。麻生総理は解散総選挙を提案する(予告解散)が支持が回復せず総選挙に突入し政権を失い下野した。

党内に「麻生総理・総裁否認論」がでて解散できないまま選挙に突入したという点では菅総理の現在の状況に似ている。いちばんの違いは民主党のようなライバルがいないことかもしれない。負けは確定だが政権を失うことはおそらくないだろうとみなされているからである。

鳩山おろし(2010年)

ようやく政権を奪取した民主党だったが当初から政権運営はつまづきを見せた。政権交代に過剰な期待をしていた国民の離反が始まり支持率が低迷する。普天間基地問題で福島瑞穂・社民党が政権を離脱する。鳩山、小沢、輿石東の三人が話し合い、結果あっさりと鳩山の辞任の流れができた。一応流れでおろしという名前で呼ばれることがあるが、自民党のような権力への執着は感じられない。

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