バ美肉と承認欲求

20代の夫婦が女子高校生を殺害したという事件があった。テレビではその後の動向をあまり聞かないので「何か表で扱いにくい事情があるんだろうな」と思った。パッと見てわかるのは被害者の女性も殺害したという妻も「かなりふくよかなタイプだった」ということである。なんとなく間に挟まれ最終的に殺害に加担した夫が「ふくよかななタイプが好きだったんだろうな」と思った。




ほどなくして、実はこの三人は「アニメ好き」ということがわかったそうだ。アニメといっても「バーチャル美少女受肉もの」というジャンルであり、アニメそのものが好きだったのか、それとも自分がバーチャル美少女になりたいという人たちだったのかということはよくわからない。世間の標準では外見を褒められることを期待されない人たちがバーチャルの世界に活路を見出して、そこで「本当のつながり」を見つけたのであろうなということがわかる。

報道ではリアルの接点がなかったと指摘するものが多いがおそらく彼らにとって本当のリアルは仮想空間やSNSにあったのではないだろうか。

と同時にこのバーチャル空間に本当の私を見出す人たちが被害者意識を持っていることもわかってきた。抗議声明が出てAera.dotの記事は撤回されたそうである。世間から気持ち悪いと思われかねないことに抵抗しているように見えるのだが実際には自分たちが自分たちのことを許容できていないのであろう。宮﨑勤の事件(1988年から1989年)でオタクに関心が集まり「オタクと殺人者を結びつけるのは差別だ」という動きが起こったのに似ている。当時のオタクはかなり特殊な趣味とされていて自分を卑下するオタクは多かったし被害者意識も同時に持っていた。今やオタクも引きこもりも普通のことになった。おそらく今「オタクと殺人者を結びつけるな」と主張する人はあまりいないのではないかと思える。

VRの文化を振興するNPO法人・バーチャルライツというところが抗議声明を出しているそうだ。この中に面白い言葉がある。それが多様性である。性の多様性を尊重する立場というところから男性にも「バ美肉さん」がいることがわかる。

だが、西洋での性の「多様性の尊重」とは使われ方が全く違っている。アメリカやヨーロッパでいう性の多様性というのは社会に多様な性選択が認められるということである。アメリカでLGBTQ運動の発信地となったカストロストリートは同性愛を理由に除隊を余儀なくされた兵士たちが故郷に帰れずに住み着いた土地なのだそうだ。彼らはアメリカ・キリスト教社会から白眼視されていたが自分たちの存在を誇示するようになる。最初は政治的な抗議運動だったようだが、次第に自分たちの存在を打ち出す「ゲイ・プライド」というパレードを行うようになる。

つまり、アメリカでは性の多様性という用語は「承認欲求」と結びつけて使われる。

だが、バーチャルライツの「多様性」にはそのような含みはなさそうだ「社会は偏見に満ち溢れていてどうしようもない」ので「プライベートで何をするかは放っておいてほしい」という意味である。つまり子供部屋に入ってきてほしくないと言っている。その代わり彼らは社会には関心を持たない。つまりお互いに無関心で生きて行きましょうという提案になっている。

おそらくバ美肉と承認欲求というタイトルそのものがネガティブに捉えられバ美肉を揶揄する文章なのだろうと感じた人も多いのではないかと思う。日本の承認欲求にはネガティブな印象がある。

この言葉はもともと悪い響きを持った言葉ではなかった。マズローによると生存などの基礎的な欲求を満たした人は社会的な欲求を持つことになっている。これが承認欲求だ。自分は社会の中で価値のあるメンバーだと思われたいしそうなりたいと考えることを承認欲求と言っている。ユングはこれを個性化と言っている。個性化は今の言葉で言うと「自己実現」のことである。自己には様々な表現や到達点がありそれぞれの自己を追求するのが個性化である。ユングの場合、それぞれが異なった到達点を目指しているのに結果的に神秘的な結びつきでつながっているというところまで理論化が進む。

この承認欲求という言葉がポジティブになるためには「社会のあるべき姿」と「こうありたい」という姿を一致させる必要がある。またなんらかの結びつきがあって(それが科学的に説明できなかったとしても)社会が連帯している・連帯すべきだという意識が必要だ。

日本社会は社会は個人の要請には応えてくれないという前提で作られている。だから自己実現も承認欲求も単なる子供のわがままであると捉えられる。こうした社会と自己の対立は先鋭化していて「現代風の」様々な言葉が作られた。

例えば「論破」という言葉がある。相手との協力を前提とせず都合が悪い論理を無視するための表現だ。論破したからといって社会が変わることはないのだがとりあえず自分の幸福追求を邪魔する他社の侵入を妨害することはできる。論破する人にとって他者というのはウイルスのようなものなのである。

さらに転生モノという漫画ジャンルも流行っている。この転生モノは不利な環境に生まれたものが新しい環境を生き直したり前世から持っていた隠されたスキルにより他人よりも優位に立ち回ることができるというようなジャンルだ。今の競争に負けている自分は本当の自分ではないが形勢を逆転するためには生まれ変わるしかないという気持ちがある。つまりありのままの自分が変化することはなく受け容れられることもないという前提に立っている人が多い。

人生の目的は勝つことなのだがその時点で社会の序列を受け入れていることになる。そして、相手に優位性を示すことでしかその人の人生は肯定されない。「その人らしさ」などという言葉は転生モノが受け入れられる社会では虚しく響くだけだろう。

渡辺直美は日本では「単にいじられ続ける」という境遇を甘受するしかない。容姿が日本のスタンダーに合わない上、日本語の能力でも問題があるとされていたようである。しかし多様性尊重が定着したアメリカではありのままの姿でスターになれる。

自分の内心を守ってくれる人は自分しかいないという被害者意識が前提がありその前提を侵犯してくる人に攻撃心を持つというのが現代人の一貫したメンタリティである。

おそらく、バ美肉に被害者意識を持つ人たちはその前提にある社会vs私という構造には一生気がつけないだろう。「私が社会に働きかけて社会を変えられる」という光景を見たことがないからだ。その意味では日本人は等しく因習の奴隷なのだといえる。

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