立憲民主党も党首を替えてはどうか

「自民党の総裁選祭り」が終わった。おそらくは何も変わらないのだが何となく変わった感じがするという不思議な祭りだった。これを見て立憲民主党も代表を変えてはどうかと思った。辻元清美さんが得意げにワイドショー批判を繰り広げ党の徳を下げているのを見て、こんな人を放置しているのでは「枝野代表ではもうダメだろう」と思った。




どうやら、テレビコミュニケーションは対決型ではなく対話型に切り替わっているようだ。政治報道だけでなくドラマでもポップミュージックでもそうだ。特に典型的なのは「お笑い」だ。とんねるずやダウンタウン型のオラオラ系がなりを潜めてお笑い第七世代は落ち着いた感じになってきている。

もちろん立憲民主党にもコミュニケーターはいる。例えば江田憲司さんは割といい感じだった。江田憲司さんはもともと橋本龍太郎総理の側近だったという人(通産省官僚として政策担当秘書官だったそうだ)なので自民党政治を熟知している。だからコメンテータとしてしっかり機能していた。司会者から振られた質問で何を期待されているのかを理解して適切な答えを返していた。落ち着いた安心感がある。

その後で辻元清美さんが出てきた。立憲民主党はプレッシャーをかけてこの時間を勝ち取っているのできまりが悪かったのだろう。「この人はいつもこんな口のきき方をしているのだろうか」と思うような失礼な口調が多かった。まともに敬語が使えないといった印象だった。最後にワイドショー批判を展開し「私言ってやったわ」という顔をしていた。田中真紀子さんを見た後のような嫌な後味が残った。

江田憲司さんが「党徳」という言葉を使った。自民党が政策論争すれば多様性があると言われるが立憲民主党は党がバラバラだと言われるのは党徳がないからだと分析していた。その意味では辻元さんは党徳を下げている。だがその自覚がない。誰かに尊敬されるという経験を残念ながらできなかったのだろう。

江田さんには左翼色がなく辻元さんには左翼色がある。

では左翼色とは何か。もともと共産党にはマルクス・レーニン主義という決まった教えがありそれを布教しなければならなかった。さらに弾圧されていた歴史があるので「闘争」を前面に押し出すしかなかった。尊敬が得られない彼らはそれを闘争で勝ち取るしかなかった。

実際にはスターリンの意向で方針が変わり「日本も武装闘争をやるべきでは?」という話になるとそれが日本共産党の方針として討議された。つまり大元の方針は決まっていてそれを自由に変えることができないというのが伝統的な日本の左翼のあり方だ。

つまり彼らには徳がなく政策的自由度もなかった。

今回自民党総裁選挙でわかったのは「話を聞くこと」の重要性である。マスコミが何か質問をする。その質問を解釈して自分なりの答えを出す。記者が聞いたことが影響を与えると「この人は話がわかる人だ」ということになる。

日本人は意思決定を嫌う。代わりに「この人は話を聞いてくれそうだ」という人が好まれる。さらに冒頭で分析したようにこれまで以上に対話型が求められている。

これはもちろん左翼だけではなく右翼にも言えることである。

菅官房長官・総理大臣はそもそも人の話を聞いておらず、聞くそぶりさえ見せなかった。だから国民から嫌われた。河野太郎行革大臣も「話を聞いている」ように思えたのだが実はそうではなかった。この人は「自分が考えたウケそうな政策」を持っていてそれを突然披瀝する。つまり思い込みで行動するのだ。だが人の話を聞いているわけではない。さらに批判も嫌いなので「ブロック太郎」という異名通り人の話はほとんど聞いていない。

枝野官房長官が嫌われたのは福島第一原発事故で「直ちに影響はない」と言い続けたからである。「訴えられるかもしれない」という恐れがあり何も言えなかったのだろう。これは実は菅官房長官と同じスタイルである。つまり「話が通じない」人なのだ。なぜ話が通じないかというと裁量権がないからだ。

おそらく左派政党の社会民主党と立憲民主党の代表者がそれぞれ弁護士になっているのは「複雑な内部事情」を全て把握した上でそれを代表しなければならないからなのかもしれない。つまり左派には自由裁量権がない。こうなると彼らに国民の話を聞く余地はない。だから関心を持っても仕方がない。

実はこれが市民運動の広がりに深刻な影響を与えている。

現在の左翼の担い手は赤旗を熱心に配布する末端の共産党員だったり市民運動だったりする。実際に話を聞くと末端の人たちは「利用されている」という印象を持っているようである。上から方針が降りてきてそれを勉強会を通じて習得させられる。疑問を持とうものなら「勉強が足りない」と言われてしまう。ただ恒例の末端市民は「まあ居場所とやることがあればいいや」と諦めてしまうようである。だが、若年層はそうではない。楽しいことも考えなければならないこともたくさんある。「彼らに付き合っても利用されるだけ」ということがわかっているから左翼運動には近づかない。

内輪は楽しそうだったが
全く広がらなかった反原発運動

例えば原発が怖いということはわかる。だが原発がないと電気料金が高くなるのではないかという疑問は誰しもが持つ。だが市民団体の末端構成員はそれを説明できない。そもそも原発はいけないものだと暗記しているだけだからである。

確かに枝野代表にも気の毒なところがある。民主党をまとめるべき重鎮に組織をまとめるつもりが一切なかった。彼らは無所属になっても選挙を勝ち抜くことができたため党運営に関心を示さなかった。

だから「俺がまとめた党なのだから俺が首班指名されて当然だ」と考えるのも無理はない。これを国民民主党にも働きかけたのだそうだ。だが外からこれを見ると「この人は自分の野望のために他人を利用しようとしているのだ」と見えてしまう。

立憲民主党も世間に開かれた形で代表選挙をやったほうがいい。政策が重要なのではなく代表選挙の間にどれくらい政策が変わるのかということが重要である。不思議なことだがおそらく日本人は政策そのものにはあまり興味がなく「どれくらい自分の声が通るか」が重要だと思っている。

この記事は「江田憲司代表待望論」のように思われるかもしれない。確かに候補者の一人だとは思うがワイドショーのコメンテータとして置いておけるくらいのコミュニケーターは実は他にもいるのではないかと思う。党利党略を捨てて例えば「金融政策の専門家」などとして売り出せばコメンテータになれる人もいるのではないだろうか。

いずれにせよ今いる執行部の顔ぶれを見ると「人の話を聞かなさそうな」人たちが多い印象がありこれが党徳を下げている。

おそらく新しいタレントを党内から発掘し政党色を出さずにテレビ露出を増やしたほうがいい。明確なビジョンを持ったリーダーの時代が終わりコミュニケーターがもてはやされる時代になったのだからそれにふさわしい人を発掘してくる必要があるのだということになる。

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