クラシコ・イタリアとイタリアのアパレル産業

メイド・イン・イタリアの服を見ていると明らかに異なる二つの系統がある。一つはアルマーニやベルサーチと言われるデザイナーが作る服である。イタリアではモーダと言われる。もう一つは紡績工場で作った服を職人が作っている。サルトリア(縫製技術)を持った職人をサルトと呼ぶそうだ。総合紳士服ブランドになったところもあるがジャケット専業メーカー・パンツ専業メーカーも存在する。日本には両系統が入ってきているのだが現在ではサルトリアの方が主流である。




こうした小規模の専門技術を持った工房を集めて1986年に設立されたのがクラシコ・イタリアという協会である。

イタリアではまずアメリカの映画産業と結びついたモーダが一世を風靡する。ジョルジョ・アルマーニなどが有名である。リチャード・ギアのアメリカン・ジゴロは1980年の作品だ。ヨーロッパではフランスに比べると二流扱いされていたイタリアのアパレル産業はハリウッドで火がつき世界展開した。その可能性に気がついた人たちが海外マーケットに展開するために作った試みの一つがクラシコ・イタリアだったのではないかと思う。日本の模倣から始めた音楽産業が世界展開されて日本を追い抜いたK-POPに似た発展の仕方だ。

Men’s Preciousという雑誌がクラシコ・イタリアの歴史についてまとめている。

長い間統一国家がなかったイタリアは各地に伝統的な紡績・アパレル産業がある。これをまとめあげでフィレンツェで開かれるピッティ・ウォモと呼ばれる見本市で売ろうとした。最初のピッティ・ウォモが開かれたのは1972年だそうである。

日本の紳士服はまず石津謙介が個人で会社を作りアメリカのアイビー・リーグの服装や風俗を紹介した。アメリカの老舗ブルックス・ブラザーズの服を日本人の体型に合わせたとも言えるだろう。好景気になり会社が急速に拡大すると石津の力では手に負えなくなり会社は倒産する。あまりにも急激にビジネスを拡大しすぎたからだろう。

そのあと、BEAMSがPOPEYEと組んだセレクトショップという業態を作り上げた。POPEYEは雑誌なので定期的に情報発信ができる。読者も渋谷にあるセレクトショップにゆけばアメリカの最先端ファッションにキャッチアップできるという仕組みが形作られた。バイヤーがアメリカ西海岸に買い付けにゆきBEAMSのようなセレクトショップで展開する。それを雑誌が「ライフスタイル」と抱き合わせて紹介しプロモーションするというようなスタイルである。

最初の石津時代を狩猟採集だとするとセレクトショップのやり方は定期的に種もみを蒔き収穫するという農耕スタイルだ。クラシコ・イタリアもこの農業型プロモーションと言って良いだろう。ピッティ・ウォモで商談をまとめた日本人バイヤーが日本のセレクトショップで商品を展開し雑誌で紹介するという動きは今ではすっかり定着している。

世の中がバブルになると高級な紳士服が売れるようになる。それがアルマーニやベルサーチだ。普通のサラリーマンであってもスーツはアルマーニという人が東京では珍しくなかった。だがモーダの服には価格による顕示効果はあっても蘊蓄はなかった。

バブルが崩壊すると贅沢なスーツはむしろ嫌われるようになり職人気質のクラシコ・イタリアがもてはやされるようになった。落合正勝さんがMen’s Extraでクラシコイタリアを特集し、それがのちにクラシコ・イタリア礼賛という本にまとめられた。

この時代に育った人たちはファッションをモノベースで語り薀蓄を傾けたがる。消費者としてはいまだに分厚い層だ。社会全体は不況なのでマスには展開できなくなったがYouTubeで告知して限定販売すればビジネスとしては成り立つ。マスメディアに依存しなくてもエコシステムとして成立するようになったのだ。ただし品物について蘊蓄を傾けるだけではダメなようだ。YouTubeは紹介する人のキャラが問われる。つまりタレントが必要なのである。

クラシコ・イタリア・ファンの特徴はイタリアの専業ブランドや生地メーカーに対する知識を豊富に持っていることだろう。これが日本人特有の職人気質のオタク気質を満足させる。

さて、イタリアの繊維産業は産地ごとに分かれていることはすでに触れたのだが地域によって勝ち組と負け組が出ているようである。ここではビエッラとプラートについて触れたい。

ビエッラはアルプス山脈の麓にある小さな街だ。アルプス山麓の豊富な牧草地と水があり羊毛生産に最適な土地だったようだ。古くから紡績の歴史があり1245年に羊毛産業と織り手の協同組合の記述があるそうだ。ここでは、一つの業者が工程を一貫管理するスタイルが定着していた。生産から生地の販売管理までを一貫して行うのである。途中工程が外国に流れることがなく伝統的な製法と高い品質が保証されている。価格は高級なものから比較的安価なものがある。

もう一つの例が中部にあるプラートだ。もともとボロ切れや古着を再生産する再生羊毛の工業クラスターから始まった。ファストファッションの台頭により安価な織物の生産地として注目されるようになったが、労働単価を抑えるために中国移民に頼り、その移民が成長して街ごと乗っ取ってしまった。イタリアで作るよりも中国で作った方が安いため中間工程が中国に移り「メイド・イン・イタリア」の価値は大きく下がった。

イタリアの地場産業は日本でも地方再生のお手本だと考えられることがある。例えば大前研一もイタリアの繊維産業について「世界一」だけをつくるイタリアの地方創生法というタイトルで紹介している。国家としては問題があるが地方都市単位でも行きこのれるというのである。大前研一が賞賛していることから「地方分権のお手本だ」と思いたくなるのだが、やはり成功例もあれば失敗例もある。

イタリアのアパレル産業はアメリカと繋がり大成功したのち日本での人気を定着させた。一旦マーケットが確定するとその後は安定した収入が得られる。一方で安価に走り安い労働力を求めて中国の労働者を利用したところは衰退している。コロナ禍で中国人労働者との間に軋轢があったのを記憶している人も多いだろう。定着したかに見えたプラートの中国人たちはイタリア人との軋轢に身の危険を感じて帰国する人も多いそうだ。

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