オワコン化するSNSとDappi問題

SNSが急速にオワコン化している。元祖SNSだったFacebookが社名変更を含めた大胆な路線変更を模索しているのだ。新型コロナの蔓延をうけて「バーチャル」に勝機があると見たのだろう。メタバース企業への展開を模索しているほか仮想通貨(当初Libraと言っていたがDiemという名前に変えたそうだ)のプロジェクトも依然進行中である。




一方で既存のSNSは荒れ始めている。日本の現実を直視するのはなかなか難しいと思うのでアメリカの事情から見てゆきたい。トランプ前大統領が「真実のソーシャル」という新しいSNSを始めるという。まずは招待制から初めてゆくゆくは有料サービスも展開したいようだ。新しい資金源にしたいという狙いもあるのだろう。「大統領選挙」のビジネス化である。

アメリカの選挙報道は与野党対決を目立たせるために「赤い党・青い党」を対立させるところから始まった。さらにエキサイティングな報道を目指して悪役として投入されたのが政治素人のトランプ氏だった。ところがトランプ氏は予想外に活躍してしまい最終的には本物の大統領になった。テレビは大衆の持つ破壊力を過小評価していたのだと思う。

アメリカの報道は当初の目論見通り「これまで政治に興味がなかった人」を引き寄せるのに成功し、引き寄せた人たちに破壊されかけた。

これが間違いだったと気がついたメディアは一斉にトランプ氏を締め出した。だがいったんメディアリテラシを獲得した人たちや彼らが経験した充足感の記憶が消えてなくなることはない。だから新しくSNSを作ると言っているわけだ。だがトランプ氏が作るSNSが定着したとしてもそれは以前からあるソーシャルメディアとは違う別の何かであろう。

日本でも同じようなコンテクストで語れる問題がある。野党に転落した自民党が「これまで政治に参加していなかった層」を取り込もうとして生まれたのが自民党の新しいネット戦略だった。これを自民党ネットサポーターズクラブという。当初はボランティアだったそうだがこの運動体が最終的に行き着いたのがDappiだったのではないかと作家の古谷経衡さんが分析している。

自民党が下野した時に草の根的に盛り上げようとしたのが「自民党ネットサポーターズクラブ」だそうだ。二代目代表はのちにデジタル庁初代長官になった平井卓也だった。つまり平井さんはこの実績が買われて「デジタルに詳しい人」という知名度を得た。だが結果的に平井さんはコロナ対策のDX化は実現できなかった。代わりに「NTTから接待されたのではないか」とか「業者を恫喝したのではないか」という週刊誌レベルの噂を振りまくだけに終わってしまった。

自民党ネットサポーターズクラブがネット言論に持ち込んだのは新しい形のメディアリテラシーではなかった。これまでの選挙で飛び交っていた旧来型の他人を貶める噂がネットに広がっただけで、政策論争が促進されることはなかったのだ。理由は明白だ。この運動を指揮した人たちに次世代型のビジョンはなかった。彼らの経験した選挙様式がそのままの形で日本に持ち込まれてしまったのである。

この草の根運動はやがてヘイトに傾斜していったそうだ。与党に返り咲いた自民党にとって行きすぎた言論破壊は好ましくない。このためネットサポーターズクラブは抑制されてゆくことになった。

Dappiはこのネットサポーターズクラブが抑制された時から出てきたようだと古谷経衡さんは指摘している。自然発生的な集団はやがて統制ができなくなるのでお金を払って管理した方が楽だと判断したのではないかと考えているようである。

ところが一旦権威主導で「政治言動リテラシ」を獲得した人たちはいなくならなかった。

自民党総裁選において高市早苗氏の「勝手連」が河野太郎候補を攻撃したのが記憶に新しい。また、ヤフーコメントも特定のテーマ(皇室や中国・韓国・朝鮮)に書き込みが集中する。「小室圭問題」をきっかけに行き過ぎたアカウントが摘発されるようになり、ついには炎上気味のトピックはトピックごとコメント欄を閉鎖することになった。最初の適用事例は「韓国漁船転覆」問題だったそうだ。

本来は無条件に保障されるべき表現の自由が抑制されることになってしまったのだ。今回のDappi問題は「お金の出所」が問題になっているようだが実際には民主主義を擁護すべき我が国の与党がネット言論にどのような影響を与えたのかが問われるべきなのではないかと思う。

感覚的に言えばおそらく「良い表現の自由」と「悪い表現の自由」があるということがわかるのだが、理論法学では「表現の自由」は無制限で守られるべきものであり条件をつけることはできない。

アフガニスタンやエチオピアのような地域ではある特定の言語や外見を持った人たちが支配民族として域内の多民族を支配している。ところが彼らは決まって少数なので単独では支配はできない。そこで別の民族の助けを借りながら国家を維持している。しかしこのバランスが崩れると各集団がそれぞれに敵対するようになり治安が悪化する。「市民階層なき国家」はある一定のレベルを超えることができない。

ただ市民階層はすぐには発展しない。まずは一つの大きな勢力が国家を束ねる必要がある。そして束ねられた国家は周囲に拡大し近隣諸国と争うようになる。結果的に「市民階層」が生まれて経済発展(実際には海外への拡張だったわけだが)へと舵を切ったところからこの争いから脱却する。この市民階層ができる段階になると、それぞれの塊が「言論の自由」や「集会の自由」を基礎にして紛争解決することができる仕組みが備わっている。

つまり理論的な法学では無制限に保障されるべき表現の自由だが、実際には「人々の目先が成長と発展」に向いている時にだけ正当化されるということがわかる。成長と発展がない場合には他人の権利の抑制・強奪・万人の万人に対する攻撃のどれかに陥ってしまう可能性が高いということになる。

人々が成長と発展を実感しにくくなってくるとむしろSNSの弊害が目立つようになる。

日本ではおそらく自民党によって攻撃的なネットリテラシーを獲得した人たちとそれに対抗する野党勢力が不毛な言い争いを続けている。これはあたかも右と左の「運動会」の様相を呈していて何ら現実の問題解決には寄与しない。政策に対する理解が深まることもない。

そればかりか両勢力とも「自分たちのいうことを受け入れて選挙に行ってくれる人が増えさえすれば自分たちの勝利は揺るがない」として無党派層の獲得に邁進するようになった。現状認識分析もできず、話し合いのスキルもなく、将来発展の展望も持てないままで無党派層が政治言論に参加しても混乱が増すばかりだ。与野党ともに「無党派層を獲得した」そのあとの展望はない。

とにかくいま勝てばそれでいいのである。

海外では別の問題も起きている。SNSで良い暮らしを知った人たちがアフリカや中東・アフガニスタンあたりからヨーロッパを目指し、中南米やカリブ海からアメリカ合衆国を目指すようになった。情報伝達の速度と範囲が予想を超えている。

我々はネットという新しく開かれた空間の扱い方を熟知していないのでこれまでの経験をそのまま転移させようとする。一方で技術はお構いなしに発展し続けている。これが大きなギャップを生みSNSをオワコン化させようとしている。

Dappi問題は「相手議員の誹謗中傷のために自民党が税金からのお金を支出しようとしていたのではないか?」という比較的卑近な問題だと考えられるようになりそうなのだ。だが、これまで政治に興味がない人たちを政治言論に引き付けるのがいいことだったのか、もしいいことだとすればどうすべきだったのかという問題を我々に突きつけている。

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