コンテンツ産業の成長について散漫に考えてみる

考えるきっかけは「岸田政権の不毛な成長論」についてだったのだが、最近コンテンツビジネスの成長とは何かとかソーシャルメディア将来はどうあるべきかということを考えることが増えた。いつもは特定のニュースなどを比較的に筋のある文章を作っているのだが今日は散漫にこの辺りをぶらぶらしてみたい。一応文章なので結論めいたものはあるのだがそのあたりはさほど重要ではないかもしれない。




最初に考えたのはなぜ日本が成長しなくなったのかという問題だった。韓国のコンテンツビジネスが養殖魚を育てるようにコンテンツを育てるのを見て「日本は成長のための成長を希求している」ようなところがあると思った。つまり実際に魚を育てて売ることに興味をなくしているのだろうということを見つけた。

韓国はIMF危機のために食べてゆく必要がありコンテンツ産業を育てた。つまり食べるための魚を作ろうとした。だが、日本にはその必要はなかった。既得権を保持し続けていれば食べて行ける社会だ。だが政治家の仕事は社会建設なので政治家でいつづけるためにはなんらかの言い訳が必要である。その言い訳として選ばれたものの一つがたまたま文化でありコンテンツなのだろう。

既得権型の社会で主に利益を享受するのは中間業者である。広告代理店とテレビ局がその二大巨頭である。では実際にこうした世界に適応した人が何を考えているのかということが気になった。

ここで比較的成功した岡田斗司夫という人が「評価経済社会」という概念を提唱しているそうだ。YouTubeに彼の主張を細切れにしたコンテンツがいくつかある。評価経済社会とは平たく言えばインフルエンスのある人が経済的に成功するという社会である。なんとなく「いいね」が多い人がもてはやされる社会だなあという感覚にはなる。だがそのあとの展開に乏しい。実際に作る人ではないので宙ぶらりんになってしまうんだろうなあという気はしたが、どうもここから話を展開させられそうにない。

この評価経済社会にはまともな批判があまりない。Googleで検索すると久保内信之という人が評価経済社会の宗教性について書いているので読んで見た。

この考察によると岡田斗司夫は「どうやったら評価が手っ取り早く(効率的に得られるか)」ということについて考察しているらしい。モノやサービスなどの財物ではなく評価そのものが売れると言っている。第三次産業社会でメインの財物は「人々の評価」であると考えているという解釈になっている。

ところがこの評価経済額は「稼いだフォロワーこそがコンテンツの価値なのだという理解を生んだ」と言っている。生産性が高い人が結果的に稼げる人になるわけではなく、結果的に給料が高い人が価値のある人なのだという理解が生まれたようなものだろう。因果関係が倒錯しているといっている。

久保さんは紆余曲折の末に「個人の発信力の時代はしばらく続くのではないか」と予測する。第三次産業ができても製造業や農業がなくなるわけではないので何かを売り続けなければならない。そのためにはメーカーのブランドを個人への信頼感に変換する媒介としての人は必要であるからだ。

ただこの考察だと近年岡田斗司夫やその仲間たちがやっている「オンラインサロンによる囲い込み」が浮いてしまうのでそれについて補足情報が付け足されている。オンラインサロンが具体的にどういう価値を提供しているのかということはよくわからない。

岡田斗司夫とそれについての考察の一つを見て見たのだが実は共通点があることはわかった。実際の作り手(ここではアニメなどの制作者やモノを作るメーカー)はなく、その流通業者のことばかりが問題になっている。日本には既得権が残っており規模の大きいテレビ局や広告代理店を前提にした戦略を立てる必要があるからなんだろうなあと思った。

岡田斗司夫はYouTubeの中で「これからはテレビに出る人がお金を出す時代が来る」と言っている。テレビで名前を売ってオンラインサロンや講演会で稼ぐというのが主流になるだろうと言っている。これも評価経済学から導き出せる当然の帰結の一つなのだそうだ。

実は「これ」がすでに破綻している業界が二つある。一つは百貨店でありもう一つは書店である。どちらも委託販売という在庫リスクを抱えない商売で成功した。つまり不動産ビジネスになってしまったのである。彼らを潰したのは新しい流通通路だった。おそらくテレビ局も「不動産ビジネス化」しておりレンタルスペースとしての将来にはあまり先がない。

百貨店も書店も委託販売ビジネスに特化しすぎて目利きの能力を失った。おそらくテレビも同じ道を辿るだろう。チャンネルの多角化が進んでいるからである。もっと端的にいえば多チャンネルについてゆけない高齢者が置き去りになる。

ただファッション業界はさらに先をいっている。セレクトショップのバイヤーというキュレーター機能を持っている人たちの中に成功事例が出始めている。キュレーターたちが売っているのは厳密には「獲得した評価」ではなく情報の編集力だ。だが実は情報だけが売れているのではない。

例えば干場義雅さんという人気のファッションエディターがいる。モテるをテーマにして有名になったという印象がある人だ。つまり一見情報を売っているように見える。試しに世界のエリートなら誰でも知っている お洒落の本質 スーツの着こなし術から世界の一流品選びまで (PHP新書)という本を読んで見たのだが大したことは書いていなかった。

干場さんは実はお家が仕立て屋だったらしくスーツ製作のディテールに詳しい。実際の作り方に熟知して解説できるというところにバリューがあるのだろう。ファッションをモノと見てそのウンチクが価値になるというのは落合正勝さん以来の伝統だ。干場さんもイタリアの職人たちが何を大切にしているかという価値観が共有できるからこそそれを日本の社会に伝えることができていることになる。

どうやらこのあたりが肝になっているらしいということがわかってきた。つまり実際に作れてなおかつ流通経路を持っている人だけがしっかりした成長ができるということである。ある程度全体の行程をしっかりと意識できる人が強いのだ。

この情報流通ルートが欠けていると荒れる材料になる。

トランプ前大統領はトゥルーソーシャルという新しいサービスを立ち上げた。日本でもヤフーニュースのコメント欄が荒れている。もともとは自民党が野党に転落した時に立ち上げたネットサポータークラブが源流であるという人もいる。単にネットという世界の片隅でちょっと暴れてもらおうという目論見だったのだろうが実はこちらの方が政治言論の主流になっていてきており無視できなくなってきている。そしてこれを管理しようとするとDappi問題のようになる。村社会で行われていた敵対陣営攻撃をネットに持ち込んでしまうからだ。

政治家もここに集まる人たちも何らかの理由で価値が作れず、誰かが作った価値を理解できない。となると議論のための議論に陥り「闇落ち」してしまう。

実体的価値が作れる人がいない社会やそれを理解できない社会は荒れる。それはリアルでもバーチャルでも同じことである。日本人はすでにある価値には乗りたがるが新しい価値には比較的冷ややかだ。このため結果的に新しい価値を生み出す人たちには住みにくい社会になっているということなのかもしれない。

次に中島健太という画家のYouTubeを見つけた。美大出身で販売実績も高いプロの画家である。昔あった町の絵画教室のようなコンテンツもあるのだが「どうやれば売り込めるのか」ということも丁寧に解説している。

中島さんは大学一年生の時にプロになると決めて大学三年生でプロになったそうだ。2017年には「注文が殺到し9割の作品が売れた」と日経新聞に取り上げられた。2019年にはTBSグッとラック!のコメンテータを務め認知度が上がった。最近では完売作家というフレーズをつけているようだが実は自分でそういう本を書いているそうである。つまり、セルフブランディングもやっていることになる。つまり実制作からプロデュースから販路拡大までをやっていることになる。

中間業ばかりが成功する不自然な環境にいる閉じ込められた人たちのメディア論にはどこかいびつなところがあるが、日本の美術にはある程度のアカデミックなバックグラウンドがあり市場も形成されている。つまり作品を作ることができ販路についての知識もあることが自信につながっていることがわかる。

それでも専業で画家は食えないという意識はかなり強く刷り込まれているそうだ。この記事によると日本で成功できるプロの画家は100人にも満たないそうである。日本にはそれなりの絵画需要があるようだが、このままでは肝心の画家がいなくなってしまいかねない状況にあると言えるのかもしれない。

さらに別の共通点もあった。韓国のコンテンツ産業が成功したのはIMF危機がきっかけだが中島さんは大学一年生のときにお父さんが亡くなったのだそうである。コンテンツを自分で売り歩かねばと思う人にはそれなりの切実な動機が隠れていることがわかる。中島さんの場合お父さんが亡くならなければ「将来は美術の教師でも」という感じだったようだ。

日本の美術市場は急速に伸びているそうだが中島さんによると投機目的の購入者が多いようである。投機が中心の美術シーンに反抗する作家も多いそうだが「反抗」そのものが消費され投機の対象になるということも起きているという。

中島さんが引き合いに出していたバナナアート(ダクトテープにバナナを貼り付けただけのものが1300万円で売れた)はそのあと別のアーティストに食べられてしまったそうだ。ただ食べられたものはただのバナナなのでそのあと別のバナナに取り替えられたという。ギャラリーの担当者はあのバナナは概念だというようなことを語ったそうだ。

絵画・彫刻のような具象的な美術品であっても「売れるのは情報」ということになってきているようだ。

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