神田沙也加報道抑制と報復自殺問題

もう去年になってしまうのだが神田沙也加さんと言うミュージカル女優が亡くなった。

非常に違和感のある報道だった。おそらく多くの人が「報道のあり方」には関心があったと思うのだが、全く別の問題について考えていた。それが報復自殺問題だ。

よく読まない人から「神田さんが報復自殺をしたのか」と捉えられかねないので、当時は触らなかったのだが少し時間が経ったので改めて考えを整理することにする。




重要なのは、生まれた時から社会に注目されていたが必ずしも安定的な自尊感情を持てなかった人をどうサポートしてゆくのかという点なのだと思う。歌や踊りで褒められることはあってもその自尊感情は常に他人の評価に依存している。そういう人がふと「一人の私」にかえった時どうなるのかという問題である。

だが「成果を上げた人がその成果に応じて自尊心が持てる」という成果社会・自己責任社会では、彼女が無条件の自尊心を育むことは難しい。そしてこうした無条件の自己肯定なしに人は生きてゆくことができない。

つまり、こうした問題は芸能人だけでなく多くの「自己責任・成果主義社会」に生きる日本人が共通して抱えている問題なのだろうと思う。

フランスで行われているいじめ厳罰化議論の危うさ

大統領選を目前にしたフランスでは様々な人気取りのための政策が立案されている。いじめ問題もその一つだ。学校でのいじめが厳罰化されて相手が自殺をしたら禁錮10年という提案になっているそうだ。現在上院で審議されているのでまだ法律にはなっていない。

同じいじめでも相手が死んでしまうと刑罰が重くなるという社会をフランスは作ろうとしている。

今回はヤフーニュースをリンクした。おおむね「いじめた奴は厳罰に処すべきだ」と言う他罰的なことを書く人が多い。マクロン大統領を称賛するコメントもついていた。他罰的な傾向が強い日本社会ではことさら「社会による報復としての厳罰化」が支援されやすいことがわかる。

それでもフランスはいじめ問題に社会が取り組んできた

暴力でなく言葉のいじめが横行しているという共通点もあるが、フランスと日本には大きな違いもある。

自己責任社会の日本では主に先生が勝手に対処すべき問題だと考えられている一方で、フランスは司法と警察と学校が協力して対応しているそうだ。年間のいじめ取り扱い件数は7万件になると言う記事もある。

この記事によると社会はかなり手厚く被害者と加害者の心のケアをやっているようだ。だがそこまでやってもいじめはなくならない。だったら罰を厳しくしようという議論になっているわけである。

ただこの報道を見て「自殺すれば罪が重くなる」と知っている被害者の中には当然報復自殺的な感情を持つ人が増えるだろうな感じた。フランスでは社会に溶け込めない中東系の移民の子孫が「テロ」を起こすことがある。

さらに「被害者にも落ち度があるのでは?」と考える日本人の場合には報復傾向は高くなりそうだ思ったのである。

報復自殺を防ぐためには普段の包摂が重要

結局社会は自分を助けてくれなかった。「そんな取るに足らない自分の命さえ放棄してしまえば相手に大きなダメージが与えられる」となった時に報復を抑止する手段は社会にはない。だから社会は普段からある程度の包摂を通じて「いざとなったら相談に乗ってくれる誰かがいる」という継続的なメッセージを発し続けることが重要である。

神田沙也加報道で見て見ぬ振りを選んだ日本

そこに出てきたのが神田沙也加さんの報道姿勢だった。日本のマスコミは明らかに問題の把握能力が落ちてきているようである。事の経緯はこうだった。

  • まず、松田聖子と神田正輝に娘である「あの神田沙也加」が突然亡くなったということになった。マスメディアでは格好のニュースになるだろうことが予想された。
  • 問題が大きくなるのを恐れた厚生労働省が通達を出した。実質的な箝口令である。ここでテレビ報道は止まった。
  • テレビは通達に萎縮してしまい「なぜ亡くなったのかはわからないが自殺したいと考えている人には専用窓口がある」というわけのわからない報道を始める。つまりマスコミはおそらくこれが自殺であろうと思っているのだが世間と政府から反発されることを恐れて何も伝えなくなった。そして誰も何も考えなくなった。
  • そこで何を聞いていいかわからなくなった芸能レポーターたちは戸惑い、娘を突然失って茫然自失に決まっている両親に「今のお気持ちは」と聞いてしまう。またそれが非難されることになった。結局人々はマスコミを非難して終わった。それで気が済んでしまったのだ。
  • ところが問題は具体的には何も解決していない。テレビから処理を丸投げされた形になった相談窓口に電話がつながりにくくなったということを指摘する人もいる。特に政府が管理しているわけではないため実際に何が起きているのかはよくわからない。とにかく誰かがなんとかしてくれているだろうとみんなが思っているのだがどこにも相談できない人が大勢出ていた可能性もある。
  • そもそも他罰報道は収まらなかった。テレビが報道を抑制する中で文春が「交際相手の共演者前山剛久が関係しているらしい」と言う記事を出した。神田沙也加の書き置き(記事では「遺書」とカギカッコ付きで書かれている)もあったらしいと書かれている。

潜在的報復社会

日本の社会は常に苛立っていて「何かがあったら誰かに報復しないと収まらない」社会になっている。つまり常に誰か犠牲者を探している状態だ。不確かな情報が飛び交い当事者となってしまった前山剛久さんが非難の矢面に立たされることになった。

フランスの議論だけをみると「厳罰化はやりすぎなのではないか」と思える。ただそれでもフランスは社会が全体としてこの問題をどう解決するかを考えている。一方で日本は「面倒だから蓋をしてしまおう」ということになる。だが社会の報復感情はなくならず、私的刑罰として誰か一人の当事者に向かうことが多い。

相手の行動次第で「刑罰」が決まる仕組み

日本は明らかに社会全体で物事を話し合うことが難しくなっている。フランスではおそらく同じ行動であったとしても「結果的に相手が亡くなってしまうと厳罰に処されるし我慢すればそれ以下の罰で済む」ことになっている。その意味ではいじめられた相手がある種の裁判官という恐ろしく理不尽な制度だ。

ところが日本ではこの手の問題がタブー視されている。だから結果的に相手が亡くなってしまうと社会に管理されない集団暴力が「原因となった人」に集中すると言う世にも恐ろしい社会になってしまっている。おそらくこのままでは前山さんが今後芸能活動することはとても難しくなるだろう。一生消えないスティグマを背負わされてしまうからである。

おそらくこう言う構造に気がついてしまういじめ被害者が早晩出てくるはずである。つまり刑罰化が進まないことによってもっと苛烈な私的暴力が温存されることになりそれが「報復自殺」の価値を高めてしまうのだ。

実はもう始まっている

だがここまで考えてゆくとじつはこの報復自殺傾向はもう始まっていることがわかる。

大阪市北区のクリニックで25人が死亡したビル放火殺人事件では容疑者が裁判にかけられないままに死亡した。他責による拡大自殺である可能性が指摘されている。社会から顧みられないこの男性が最も華々しく最も効果的な「命の使い方」を選んだということだ。

学校でのいじめは教育委員会などに隠蔽されてしまうので報復自殺の連鎖が広がることはないのかもしれないのだが、社会に出ればそうではなくなる。

普段からそう言うことを考えたり話し合ったりしていないのだから一人ひとりがとんでもない妄想を抱えながら生きているという可能性が排除できないのである。それが小さなビルだったり電車での移動を危険にさらすという社会を我々は「隠して」「話し合わないこと」で作り出しているのだといえるだろう。

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