橋下徹が象徴する日本政治言論の怠惰とアパシー

橋下徹さんがウクライナ問題で持論を展開して顰蹙を買っている。顰蹙を買っているのだがここれを擁護する人もいる。日本人の怠惰を正当化する橋下さんに共感する人が一定数いるのだ。




第一にこの件について橋下徹さんを批判するつもりはない。そもそも橋下さんが登場する番組は見ないからだ。橋下さんが出てくることで「わざわざ見る価値がない」ということがわかる。つまり便利な記号になっているのだ。

今回の橋下さんの議論はウクライナで戦争が起これば国民の命が犠牲になる。だから戦争はやめるべきだというものである。戦争は面倒だと考える日本人としては自然な発想である。だが、これは平原国家であり自明な国境線がないウクライナやロシアの地理や歴史的経緯を一切無視した発言だ。仮にウクライナ人が「面倒な戦争などしたくない」と考える人たちであればとっくに誰かに滅ぼされていただろう。これは実はロシア人にも同じことが言える。彼らには自明の国境線がないから領土保全に固執するのである。

ロシア・ウクライナの衝突はこうした民族的な記憶に根ざした被害者感情元になっている。つまり、橋下さんの発言を見るとそもそも彼が「なぜこの戦争が起きたのか」ということにまるで興味がないということがわかる。

さらに彼の発言は共感性を欠いている。そもそも戦争で故国が失われようとしている時に当事者にかける言葉ではないということがよくわかっておらず、とにかく議論に勝てばテレビというショーは成り立つと思っている。

戦争という異常事態だろうがおかまいなしに相手を論破する。この調子では殺されかけている人を目撃したとしても「あなたにも落ち度があったのではないですか?」などと議論を挑みかねない。相手への共感性を全く欠いているということである。ビジネスでクライアントが被る損害を最低限にするためにありとあらゆる手を使って司法防衛する時には使える才能なのだろうが、政治や国際平和について語らせるのは不適格である。だがその不適格性を判断するのは視聴者だ。だから見なければいいのである。

ただ、この意見に賛同する人も少なからずいるようだ。Quoraのスペースでも議論になっていた。この人は市民感覚を働かせ「ロシアのような大国が非人道的な行いをするはずがない」と根拠なく断じた後で橋下擁護論を展開している。

おそらく根底には戦争のような面倒なことは避けて賢くやればいいじゃないかという気持ちがあるのだろう。それに向けて都合がいい事実だけを集約して「何も考えないこと」を選んでいる。

おそらく橋下徹さんの支持者というのは「どうせ個人がとやかく言ったところで体制は変わらないから面倒なことはやらずにいるのが賢いのではないか」という庶民感情を代表しているのだろう。いわば共感性を欠いた自己責任型の怠惰さの象徴なのだろうが、一定の需要があるところを見ると日本人の中にはこうしたマインドセットを肯定して欲しい人が少なからずいるのだろうなということがわかる。

橋下徹さんは自分の才能を需要のあるところに使って好きなことを言う権利がある。だがその需要の意味はよく考えたほうがいい。

個人を日本人には「自分が何を言っても社会は変わらない」という無力感を持っている人が多い。だたこれを受け入れてしまうと無力な自分を自覚せざるを得なくなる。例えばこれを「日本は核兵器と軍隊を持っていないから自信が持てないのだ」と考えると安倍晋三的思考になるし、実は何もしないことこそが真の賢さなのだと捉えると橋下徹的思考になる。つまりアパシーの補償を毎日テレビ番組で垂れ流しているということだ。おそらくアパシーを受け入れてしまった人にとっては必要なサプリメントなのだろうが、これを政治討論だとするのには強い違和感を感じる。さらにその無力的価値観を戦争に巻き込まれた当事者にぶつけてしまうようになるとやや害悪の方向に向かい始めているのかなという気がする。

だが強い無力感に苛まれている人に「これは無力感からくるんですよね」と言って見たところでそれも無駄な話だろう。そもそもそれが受け入れられないから延々とテレビ二時間を費やしたりお気に入りのYouTubeに執着したりするのだから。

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